2025年6月23日 礼拝説教 「福音の初め」
2025 年 6 月 23 日 礼拝説教 「福音の初め」 マルコによる福音書 1 章 1 節 1節 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」 マルコによる福音書の書き出しは、ぶっきらぼうで、芸を感じさせない、とても単純な物です。羊飼いや、天使や、博士の話もなければ、「初めに言葉があった」といった、意味深そうな言葉もありません。ここにいる皆様と同じ年齢だったころの私が、一番読みたくなかった福音書は今開いたマルコでした。他の福音書に比べると、読み甲斐のない、単調な書物に思えました。 マルコのすごさが分かってきたのは大分あとのことでした。今、読んだ 1 章 1 節が、当時の世の中で、どのような時に使う言葉かが分かった頃からです。これは即位したばかりの皇帝を紹介するために使う、宣言の言葉でした。ローマ皇帝は普通の人とは違う「神の子」として崇められ、即位した結果、世界のすべての人が幸せになるとされ、その「良い知らせ」、つまり「福音」が言い広められました。十字架に付けられ、ローマ帝国に抹消されたナザレのイエスに当てはまる言葉ではないのは、 言うまでもありませんでした。初代のクリスチャンがこのようにしてイエス様を紹介するのは、ローマ帝国への、非常識極まりない挑戦状に当たる行為でした。 ローマ人は強い者を崇拝したので、弱い者の見方だったナザレのイエスのような優しいお方は、彼らの軽蔑の対象以外の何物でもありませんでした。マルコが紹介するイエス様は、高尚な哲学を語ることもなければ、気高い道徳を口にすることもありません。その一方、貧しい人や、病気の人。醜い人や、のけ者にされた社会的弱者を徹底的に擁護します。その結果、すばらしい人として尊敬されるどころか、これ以上に恥ずかしく、惨めな死に方がない方法で殺され、同国民からも見捨てられました。 この福音書を最後まで読んでも、復活した、栄光に輝くイエス様に出会うことはありません。マルコが最後に描くのは、空っぽになったイエス様の墓を見て怖くなり、何も言えなくなった女性たちの姿で、起承転結の結がないまま、ブツッと切れてしまいます。話の結びらしい物があるとすれば、死刑執行の現場責任者だったローマ軍の百人隊長が、十字架にかかったまま死んでいるイエス様を見ながら発した言葉です。 ローマの都にいる、究極の上司で...