2026年3 月31日礼拝説教 「初めにロゴスがあった」
2026年3 月31日礼拝説教
「初めにロゴスがあった」
ヨハネによる福音書1章1節
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」
最後の福音書の著者であるヨハネは、生身のイエス様の生き証人でした。この福音書とは別に書き記した第一の手紙の冒頭にこのように言っています。「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものをお伝えします。」呼吸の音と体の温もりまで伝わる、身近な存在としてイエス様と触れ合った人間であることを強調しています。しかし、イエス様を正式に紹介する、この福音書を始めるに当たって、地中海社会の知識階級に馴染みがある「ロゴス」という言葉を使いました。
これはその当時の、教養ある人たちの大半に通用する一般的な概念でした。宇宙に秩序を与え、すべての物の存在を支える基本原理があると信じられ、それを「ロゴス」と言いました。万物のソフトウェア、宇宙の設計図とも言える「ロゴス」が、意識がない物質に働きかけ、自分のコピーとして自然界を造ると考えられていました。
イエス様がイスラエルで活躍していたのとほぼ同じ時期に、エジプトにある学問の都、アレキサンドリアにフィロンというユダヤ人がいました。後世の思想に大きな影響を及ぼしましたが、ギリシャ人が教える「ロゴス」を旧約聖書の中に発見しようとしました。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いた。神は言われた。『光、あれ。』」フィロンはここにある「神の霊」と「神の言葉」こそ「ロゴス」であると教えました。「ロゴスは神と共にあった。ロゴスは神であった。このロゴスは初めに神と共にあった。万物はロゴスによって成った。成ったもので、ロゴスによらずに成ったものは何一つなかった。」ヨハネのここまでの言葉は、フィロンの考えとほぼ一致していました。フィロンは言っていました。「唯一の真の神を太陽に例えるなら、ロゴスはその太陽から放たれる光だ。二つの存在は別々に思えても、本質は一つである。」
福音書の1章を書くヨハネはしばらく、フィロンの思想に沿った形で「ロゴス」の説明を続けますが、14節に入ると、フィロンを初めとする知識人を仰天させる、とんでもない主張を始めます。「ロゴスは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」フィロンの弟子たちの激しい反論を想像することができます。「あり得ない。ロゴスは物質になることはないし、直接見ることもできない。」
読み慣れた箇所なので、如何に革命的な発言であるかに対して私たちの心は鈍りがちですが、ヨハネは大変な事を言っています。「すべての命を支える宇宙の本質その物が一人の人間になった。しかも、私たちはその人間を身近な存在として見た。その正体は、私たちと共にいたナザレのイエスだ。」
しかし、ユダヤ人には違う関心事がありました。イスラエル国家が栄えた頃に国を治めていたダビデ王の子孫が王位に就くと信じていましたが、それだけではありませんでした。心の底から待ち望んでいたのは「栄光の雲」が戻って来ることでした。「栄光の雲」とは何でしょうか。それはイスラエルの民がエジプトを出た時に、全知全能の神が共におられるという、動かぬ証拠として彼らに現れた物です。行く道を知らずに進む彼らを導いたのは、夜になると火のように輝く雲の柱でした。
礼拝の場所として幕屋が建てられ、後にソロモン王の下で神殿が建った時にも、同じ現象が起きました。神の臨在を示す「栄光の雲」が現れ、神殿の中をいっぱいにし、人が近づけないほど恐れ多い、聖なる空間を作りました。その後、イスラエルの民は罪を犯し続けた罰として遠い国に捕虜として連れて行かれ、神殿が破壊されました。その時、預言者エゼキエルは、「栄光の雲」が神殿から離れて行く姿を見ました。つまり、それまでは共にいた神様が、ご自分の民から離れ、いなくなりました。
罪を悔い改めたユダヤ人は神様に赦され、イスラエルの地に戻りました。エルサレムの城壁を修復した他に、神殿の建て直しをもしました。イエス様の時代に、他民族出身で、中途半端なユダヤ教徒だったヘロデ王は、ユダヤ人に好意を持たれようと願って改修工事を行い、世界で最も美しいと言われるほど立派な神殿ができました。しかし、この神殿に大きな不備がありました。日本風に言うと、神殿のご神体に当たる、モーセの十戒の原板が入っていた「契約の箱」はありませんでした。神殿の奥宮である「至聖所」は空っぽで、「栄光の雲」も戻っていませんでした。帰国できたのは良かったものの、信仰深いユダヤ人は満足していませんでした。彼らは祈りました。「神様。ご自分の民の所に帰って来るのはいつですか。あなたの律法を忠実に守っている私たちに目を留め、以前のように、共にいてください。」
ユダヤ人のこの思いに対しても、ヨハネはここで答えを出しています。「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵と真理に満ちていた。・・・いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」驚いたことに、二本の足で地面に歩く一人の人間が神様の栄光を完全に表し、ダビデ王の後継者が現れるという期待も、神殿に戻る「栄光の雲」への期待も、ナザレのイエスという一人の人間が来たことによって実現したと言うのです。
この時代に生きる私たちと、これはどのような関係があるでしょうか。まずは、世界が今抱えている大きな問題であろうと、個人を苦しめる小さな問題であろうと、その答えはすでに出ているということです。人類が待ち望んだ方は既に来られ、この方の内に救いも癒しも解放もあり、すべての問題の解決があります。教会に来ると私たちは知識を得ます。倫理的な正しい生き方も学びます。兄弟姉妹との交わりによって励ましを受けます。しかし、教会に来る究極的な目的はそこにではなく、栄光の主であるイエス様に出会う事です。
建て直された神殿に「栄光の雲」は、ユダヤ人の期待通りに戻って来ることはありませんでした。私たちが集う教会はどうでしょうか。十字架と復活の後に天に戻られたイエス様はどこにも見えません。空っぽだった神殿の至聖所と同じように、私たちの教会堂も空っぽでしょうか。建物がいくら立派であっても、イエス様がいない教会堂は確かにあります。何故なら、今、イエス様の住まいとなっているのは建物ではなく、イエス様に身を委ねた、一人ひとりの人間だからです。パウロは言っています。「あなたがたは神の神殿であり、神の霊があなたたちの内に住んでいる。」
ギリシャの思想家たちが教える「ロゴス」も、ユダヤ人が待ち望む「栄光の雲」も、イエス様の肉体の内に現れました。しかし、イエス様は弟子たちから離れ、その姿は見えなくなりました。神様の本質に近づこうとする人間はそれからどうすれば良いのでしょうか。離れる前にイエス様は言いました。「父の約束されたものを待ちなさい・・・あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる。」「栄光の雲」はもう一度、形を変えて人間がいる所に来ようとしていました。
「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っている家中に響いた。・・・一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国の言葉で話しだした。」「栄光の雲」が見えたのではなく、「激しい風が吹いて来るような音」が聞こえました。しかし、その正体は同じで、地上での生涯の最中にイエス様の原動力となった同じ神様の霊が、集まっていた百二十人ほどの弟子たちの心を捉えました。
その後はどうなったでしょうか。イエス様がたくさん現れたと思わせるほど、弟子たちの周辺に、イエス様がいた時と同じような現象が起き始めました。説明の仕様もない奇跡が起きると、イエス様を逮捕して十字架に付けた同じ当局者たちは、彼らをも逮捕しました。取り調べを行って驚いたのは、彼らが無学な普通の人たちだったことです。際立った特徴はただ一つで、彼らがイエス様と一緒にいた人間だったことです。
私たちはどうでしょうか。私たちに「栄光の雲」のオーラがあるでしょうか。「イエスと一緒にいたものである」という事実が分かるでしょうか。イエス様はヒントになることを言っています。「互いに愛し合いなさい。・・・それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
イエス様は今日、ここにいますか。教会堂であるかは大事なことではありません。会衆の数の多さも問題ではありません。「イエスの名によって集まる。」つまり、真心からイエス様に出会いたいと願う人が集っているかが肝心な要素になっています。皆さま、どうでしょうか。今日、ここに集まった私たちにその思いがあるでしょうか。もし、あるとするなら、この時代に生きる私たちにも、イエス様の約束は有効です。「わたしもその中にいるのである。」
本当にここにイエス様がいると意識できるなら、私たちは何をするでしょうか。まずはイエス様を愛していると告白するか、罪の赦しを求めるかもしれません。それから、支え、守られたことへの感謝。次はお金の問題の解決、病気の癒し、心の解放、進路への導き、家族の救い、世界の平和などについてイエス様に語り掛けることでしょう。少なくても、何もなかったかのように帰る人は、一人もいないと思います。
進む道が見えなくなった世の中に向かって宣言しましよう。「この方は既に来られた。今もここにいる。死から命への道は開かれた。この救いを受け、イエス様に向かって心を素直に開いてください。」終わる前に、少しばかりの時間を取り、救い主であるイエス様に目を向け、それぞれの思いを注ぎ出す時を持ちましょう。訴えたことへの答えを掴んでお帰りになれるように祈ります。主イエス様の恵が、お一人お一人と共にありますように。
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