2025年7月7日 礼拝説教 「わたしよりも優れた方」

 202577日 礼拝説教

「わたしよりも優れた方」

マルコによる福音書1章2節~7節

2節               預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。

3節               荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、

4節               洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

5節               ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

6節               ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

7節               彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。

少年の頃、ニュージーランドの大人たちによく聞かれることがありました。「あなたのヒーローは誰ですか。」憧れの人がいて、その人のようになろうとするのが成長過程の大事な要素と思われていたようです。「特にいない」と返事すると、尋ねた大人の表情が暗くなりました。「ヒーローがいない子供」は不健康で、やる気がないと思われがちでした。それに気を遣ってか、無理をしてでも、それらしい有名人の名前を上げようとした記憶があります。

小学校の図書室を見るとわかりますが、かつての日本でも、子供たちに偉人伝を読ませ、立派な人になる志を立てさせようとしました。マスコミも番組制作のために新しいヒーローを必死に探し回りました。人は憧れの対象を見ると明るい気持ちになるので、視聴率を上げる上でも効果的でした。

私たちの身近な所にも憧れの対象がいます。学校の中で、特定の先生や先輩にその役目を負わせます。対象にされるのも嬉しいことですが、大きな負担にもなります。ヒーローを作りたがるあまり、大き過ぎる期待をかけ、描いていたイメージ通りの人間ではないと知ると幻滅します。ヒーローにされた本人にとって、期待を裏切った時に味わう屈辱は、もてはやされた時に味わった嬉しさを超えて辛いものです。マスコミに登場するほどの人間となれば、なおさらのことです。

「神の子イエス・キリストの福音」という題が付いているマルコの福音書は、ほかの三つの福音書の例に漏れることなく、イエス様ではない、違う人の話から始まります。当時の人がイエス様の話をしようと思うなら、まずは同年代の超大物、洗礼者ヨハネに触れる必要がありました。後にイエス様ご自身に「女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と言わせるほどの存在感がある人で、都エルサレムを初めとする、ユダヤの全土から、大勢の人がヨハネの話を聞きに集まりました。

ヨハネはエルサレムの神殿に仕える祭司の息子でしたが、庶民に大きな負担となっていた神殿礼拝に背を向け、荒野に出て修験者のような生活をしました。修行を積んだヨハネはヨルダン川に現れ、罪の告白と全身を水に沈めるバプテスマという儀式を通して、罪が赦されると説き始めました。当時の体制に不満を持つ人たちはヨハネに期待をかけ、イエス様ではなく、ヨハネこそ救い主ではないかと思う人たちもいました。

注目の的で、時の人になったにも関わらず、有頂天にならなかったところにヨハネの偉大さがありました。ヒーローにされることを拒み、自分とは比較にならないほど優れた方が来ようとしていると言いました。どれほど優れているかを説明するために、自分のような者が「かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」、つまり自分には、そのお方の奴隷になる値打ちもないと言いました。

憧れの人を持つのはとても良い事です。しかし、忘れてはならないのは、私たちのヒーローたちは皆、人間であり、注意深く観察するなら、がっかりさせる要素のない人間は一人もいません。ヨハネが言う、未だに会っていないお方、もっと優れた、人を幻滅させることのないお方に会う必要があります。その一人しかいないお方は正体を現そうとしていました。

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