2025年7月14日 礼拝説教 「聖霊によるバプテスマ」
2025年7月14日 礼拝説教
「聖霊によるバプテスマ」
6節
ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
7節
彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
8節
わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
9節
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
10節
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
11節
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
キリスト教主義学校に相応しい校則とは何でしょうか。優しいイエス様に守られた学校だから、規則は緩く、破っても厳しい指導を受けないのが理想だと思うかもしれません。しかし、それは大きな誤解です。多くのキリスト教学校は厳しい修行を積んだ聖職者に設立されたので、これまでは、生徒にも同じように、厳しい要求をする傾向がありました。
しかし、聖書に基づいて校則について議論するならどうでしょうか。新約聖書のガラテヤの信徒への手紙を読むと、キリスト教主義学校の校則への考え方が見えて来ます。結論から言うと、理想的なキリスト教主義学校に校則はありません。生徒一人一人に神様の霊、つまり聖霊が住み着くので、校則の力を借りなくても、正しい行動が取れるようになるのが前提になっています。
次のような学校を想像してみてください。入学式の日に「この学校には校則はありません」という説明を受けます。新一年生は「何でも好きなことができる」と思って喜びます。しかし、学校生活が始まると、先輩たちの振る舞いがあまりにも上品で立派な物です。教員たちも、生徒の指導に全身全霊を注ぐ、熱心な教育者ばかりです。好き勝手にできると期待していた一年生は、新しく入った学校の雰囲気に圧倒され、悪いことをしようと思っても、手も足も出ません。
新入生は、身だしなみも言葉遣いも上品な先輩たちの模範に倣い、最初の夏休みを迎える頃、いつの間に同じように振舞っている自分たちに気が付きます。生徒への愛情と献身ぶりが明らかな教員たちをがっかりさせてはならないという思いがとても強くなり、期待に応えようと思って成績もぐんぐん伸びて行きます。
校則がないのは「何でも好きなことができる」という意味ではなく、学校にいる一人一人の心の中に、他の学校の校則が求める基準よりもはるかに高い志が育つことだと、悟るようになります。新約聖書の教えによると、校則は悪い物ではなく、その中に見られる精神が、一人ひとりの心に定着するまで必要な、養育係の役目を果たしています。教育機関として成功した学校の特徴の究極的な姿は、規則を必要としない、校則のない学校になることです。
洗礼者ヨハネは集まって来た人たちに間違った生き方を変え、水のバプテスマを受けるように勧めました。先週、お話したように、ヨハネはエルサレムの神殿礼拝に背を向け、新しい道を示そうとしました。
しかし、ヨハネは知っていました。自分の教えは、神殿の祭司たちが教える校則に代わる、別な校則に過ぎない。人の心を根っこから変える力はなく、ヨルダン川の水に浸かるバプテスマも、これまでの生き方にけじめをつける意味で効果があるかもしれないが、心の底から人を変える力はない。
誰にそのようなことができるのでしょうか。自分の後に来るもっと優れたお方。水ではなく聖霊でバプテスマを授けるお方。学校に当てはめて言うなら、その人に校則がいらない物にする力がある。ルールがなくても、一人ひとりが校則に込められた精神を、自分から望んで実行させる力がある。
キリスト教主義教育の究極の目標はこの方との出会いによって、この内面的な変化を起こすことです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」神様にそう言わせたお方です。夏休みが終わってからも、この方についての学びを続けたいと思います。
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