2025年1月14日 礼拝説教 「どうすれば罪が赦されるか」

 2025114日 始業礼拝

「どうすれば罪が赦されるか」

詩篇511節~6節、9節、12節~14節、18節、19節

1節               【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。

2節               ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】

3節               神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。

4節               わたしの咎をことごとく洗い罪から清めてください。

5節               あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。

6節               あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。

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9節               ・・・わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。

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12節           神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。

13節           御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。

14節           御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。

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18節           もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのならわたしはそれをささげます。

19節           しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。

聖書を真ん中から開くと詩編があります。150もある詩に書いてある内容はきれいごとではありません。作者たちは皆、神様を信じていますが、書いてあるのは色々な葛藤を経験した時の本音です。神様の恵を感謝する内容も多いですが、敵対する人への怒り、祈りに応えてくれない神様への不満、自分自身へのいら立ちなど、様々な感情が生々しく表現されています。約半分はダビデの作品ですが、重要なできごとがある度に詩を書いたので、心の内側がよく見えて来ます。今日、読んだ51篇は、冬休み前に紹介したバト・シェバとの一件が背景にあり、その事件の少し後に書いた可能性が高いのは32篇です。

王様であるダビデはイスラエル軍の最高司令官で、バト・シェバの夫ウリヤはその配下にいる軍人でした。命を落とすかもしれない危険な任務を命じられても、ウリヤに文句を言う権利はありませんでした。王様の命令は絶対で、バト・シェバを宮殿に迎え入れるのを止められる人もいませんでした。噂を立てる家臣がいたとしても、ダビデの立場にいる人間が、相手にする必要はありませんでした。

ダビデを責める検察官も、裁判官も、国会議員もいませんでした。しかし、ダビデはそのような人の声よりはるかに恐ろしい、内側から責めて来る訴えを体験しました。詩編32篇に、この時を振り返ってその思い出を語るダビデの言葉あります。「わたしは黙し続けて絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました。」

ダビデの力と魅力の元になっていたのは、愛して選んでくださった神様との純粋な心が通じ合う関係でした。危ない場面がいろいろあったものの、若い頃から神様の意思に対して素直な、澄み切っていたとも言えるほど、晴れやかな心を保ち続け、これがあったからこそ、ここまでやって来られました。ところが、この事件を境に、今までにない、暗い影が落ちてきました。自分の真っ白できれいな心に、ひどい汚れが付いたことに気が付きました。元気の源となる、はち切れそうな喜びが消え、腹の底に、鉛のような、重いものがひっかかっていました。

しかし、何よりも恐ろしいことに、羊の世話をしていた頃から、静かな水辺のほとりにいた時も、猛獣が襲いかかった時も、いつも近くにいると信じて疑わなかった、神様の存在が消えていました。新約聖書を読むと、イエス様を信じる人には皆、聖霊と呼ばれる神様の存在が付いていることがわかります。この聖霊が人の人格を高め、必要に応じて特別な能力をも与えます。

自分の個人的な経験を言えば、中学校二、三年生の時に神様と不思議な出会いがありました。それから、何年もの間、右上に手を上げたら、その辺りに神様がいると感じるほど身近な存在として意識していました。41歳の頃、徹夜で仕事をする日々がしばらく続いて過労が重なり、軽い鬱のような状態になりました。新しい仕事に何とか慣れて困難な時期を乗り越えると心に余裕ができましたが、その時、恐ろしい事に気が付きました。いつもそこにいるはずの神様はどこにもいませんでした。その後、何年もたってから、すぐ傍にいる神様への意識が戻ってきましたが、「御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」というダビデの言葉を読むと、苦しかったあの頃を思い出します。

新約聖書に次の言葉あります。「神の聖霊を悲しませてはいけません。世の終わりまであなたの身分を保証しているのは聖霊です。」私たちの態度や行動が神様の霊を悲しませ、神様がその姿を隠すこともあります。32篇によると、この苦しみの中でダビデは次の様に決心しました。「わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました『主にわたしの背きを告白しよう』」。

相手に深い傷を負わせ、人に対して罪を犯した時、私たちに何ができるでしょうか。「ごめんなさい」と言っても、箱菓子を用意してお金を積んでも、相手が負った傷が簡単に治るはずはありません。時間が解決すると言っても、何かある度にその記憶がよみがえってきます。神様に赦してもらおうと思ったダビデもいろいろと考えました。神殿に行って生贄として動物を捧げる方法もありました。しかし、ダビデは今回のことに限って、そのようなことでは解決にならないと悟っていました。

思い悩むダビデが至った結論はこの詩編の19節に書いてあります。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」人を赦せるかどうかで思い悩む時、大切に思うのは何でしょうか。「この人は、自分に負わせた傷の深さを本当に理解しているだろうか。私の心の痛みに見合った痛みを今、自ら感じているだろうか。」それでも難しいかもしれませんが、悔いる心の痛みが十分に伝わってきたら、少しは赦してあげようという気持ちになれるかもしれません。

このように悩みながら思いめぐらしていたからこそ、預言者ナタンの指摘を受けたダビデは素直に告白できました。「わたしは主に罪を犯した。」心が砕かれたダビデの思いも神様に伝わり、「主があなたの罪を取り除かれる。」という赦しの言葉が与えられました。プロテスタントの教会であまり聞きませんが、カトリックの教会の礼拝式文の初めに罪の告白があります。ラテン語で「キリエ・エレイソン」、日本語で「主よ、哀れみたまえ」という意味の讃美歌を歌います。

今年の冬は最初から大雪になり、雪片付けでうんざりしている生徒も多いと思います。しかし、その反面、目障りな物や地面の汚れは深い雪に覆われ、どの方角を見ても純白で清らか風景が目に映ります。昨年の思い出も、この雪の白さに例えることができるなら良いのですが、年を越しても汚れた何か、ひっかかる何か、重苦しい何かをかかえたままここに来た生徒もいると思います。

進路に向けて最後の踏ん張りに臨む生徒もいれば、卒業や進級に向けて気持ちを改めようとしている生徒も多くいます。うやむやな気持ちのままで次に進みたくないなら、私たちもダビデの言葉を借りて祈ることができます。「わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。」「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。」

 皆様にとって、溢れるばかりの幸せが手に入る2025年となりますように。

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