2024年12月9日 礼拝説教 「ヤハウェの御心に適わなかった」

 2024129日 礼拝説教

「ヤハウェの御心に適わなかった」

サムエル記下112節~5節、14節~17節、26節~27

2節               ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。

3節               ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。

4節               ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、

5節               子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。

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14節           翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。

15節           書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。

16節           町の様子を見張っていたヨアブは、強力な戦士がいると判断した辺りにウリヤを配置した。

17節           町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た。ヘト人ウリヤも死んだ。

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26節           ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆いた。

27節           喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を産んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。

「最悪!どこが理想的なリーダーなのよ?ダビデの今までのイメージが地に落ちた。」そう思っても当然でしょう。ダビデには三十七人の勇士と言われる家臣団がいました。勇士たちの名簿の一番後ろに、一人の外国人の名前が載っています。ヘト人、ウリヤです。イスラエル人でもないのに、ダビデを慕って家臣になり、忠実に仕えました。憧れのダビデに裏切られ、死に追いやられ、妻まで奪われるとは、夢にも思っていなかったことでしょう。

日本語には「英雄、色を好む」という諺があります。中国にいた時、同僚の一人から「それは違う。『女性、英雄を好む』」だよ。」と言われました。それもそうかなと思いましたが、近代以前は、英雄と呼ばれた人のほとんどは多くの女性と関係を持ちました。

モンゴル帝国を作ったチンギスハンはあまりにも多くの女性に子供を産ませたので、現代のアジア人男性の内、1千6百万人以上がチンギスハンの遺伝子を受け継いでいると言われています。新札の1万円に顔が写っている日本資本主義の父、渋沢栄一の女性関係も派手で、一説によると百人以上の子供を設けました。

近代以前は、世界のどこに行っても、軍人であろうと、経済人であろうと、一定以上の力を持てば、権利として気に入った女性に手を出せるのが社会の常識になっていました。ダビデは後継者のソロモンほどではなかったものの、名前が分かる妻だけで八人もいて、その他にも妻やそばめがいました。それにも満足できなかったダビデは、家臣の妻にまで情を燃やし、卑怯な手を使って略奪しました。

 このようなダビデが、果たして神様の心に適った理想のリーダーと言えたでしょうか。前にも言いましたが、聖書を読み進むと、神様の本音に対する人間の理解が、徐々に深まって行く過程が見られます。新約聖書時代に入り、教会のリーダーは妻が一人しかいない人に限られ、不倫は女性と同じように、男性にも固く禁じられる行為になります。日本はキリスト教国とは言えませんが、戦後になって少しずつ、社会的に力があるリーダーにも、男女関係をキチンさせるように求められるようになりました。政治家を巡る最近のニュースを見ても、新約聖書の教えが、日本の近代社会に大きな影響を与えたという事実が見えてきます。

 「ダビデのしたことはヤハウェの御心に適わなかった。」今日の結びの言葉は、私が使っている英語の聖書では「主はダビデのしたことに腹を立てた。」となっています。周囲の王様が平然と行っていることでも、神様の支配のもとにある特別な国、イスラエルでは、人が見逃すことがあっても、神様は黙っていません。ダビデから始まって、人間の神様との関係が変わり始めますが、ダビデはこれでおしまいになるのでしょうか。次回以降にその答えが出ますが、今日までの話で、これだけははっきりしました。神様の心に適った、あの立派ダビデも、他のすべての人間と同じように、正真正銘の罪人でした。

 ここまで落ちたダビデに救いの道があったでしょうか。王様の位にまで登った人間に、特別な扱いがあったでしょうか。十字架による罪の赦しが示される千年も前に、ダビデは身をもって、どんな罪をも犯した、どんな人間にも、救われる道があることを示すことになります。預言者サムエルはもういません。神様はナタンという別な預言者に、ダビデへのメッセージを託します。次回はこのナタンという預言者が登場します。

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