2024年10月7日 礼拝説教 「手には剣もなかった」

 202410月7日 礼拝説教

「手には剣もなかった」

サムエル記上 1741節~50

41節             ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいて来た。

42節             彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。

43節             このペリシテ人はダビデに言った。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか。」そして、自分の神々によってダビデを呪い、

44節             更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」

45節             だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。

46節             今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。

47節             主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」

48節             ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。

49節             ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。

50節             ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。

聖書に物騒な話が多いと思うかもしれません。旧約聖書の登場人物は天地創造の神様を信じ、その言葉に従おうとします。しかし、彼らには、信じている神様の正体が十分に見えているとは言えません。それが原因で、彼らの行動に、首をかしげたくなることがたくさんあります。聖書の教えが完成するのはイエス様が産まれてからのことで、神様の意思を正確に知ろうとするなら、新約聖書まで読み進む必要があります。

それにしても、ダビデが登場してから、旧約聖書の流れにも大きな変化が見られます。ダビデの信仰のお陰で、神様と人間の間にある距離は一気に縮みます。詩編の多くはダビデが作りましたが、それらを読むと、それまでになかった形で、神様と心を通わせる人間の姿が見えてきます。本当の意味で、神様から罪を赦されたという体験をするのも、ダビデが最初の人間かもしれません。

聖書が完成し、その教えが広まるに従って、世界の人たちの価値観は変わり始めます。古代の世界では、尊敬され、憧れの対象となったのは、いつも強くて美しい者であり、弱くてみすぼらしい者に目を留める人はいませんでした。自然の法則に従い、上に立つのはいつも強い者であり、弱い者はその下に置かれるのが当然のこととされていました。

イスラエル人とペリシテ人を比べても、優れた武器や技術を持っていたのはペリシテ人であり、当時の価値観に基づいて言うなら、神様が付いているのは明らかにペリシテ人の方でした。弱くて臆病なイスラエル人が、彼らと、彼らの神々に服従するほかはなく、そうなるのもごく当然のことでした。ダビデとゴリアト物語はそのような世界観の終わりの始まりを示し、人類の価値観に大きな変化が起きようとしていることを教えてくれます。

イエス様が生まれる千年も前のことでしたが、ダビデがゴリアトに向ける言葉に大きな意味があります。「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。」新約聖書に書いてあるパウロの言葉にこの場面を思わせる箇所があります。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」

礼拝堂の中心に飾ってある十字架はもともと、圧倒的に強い、ローマ帝国に反抗する者が仮にいたとしたら、この木に釘付けにして酷い死に方をさせ、徹底的に踏みつぶしてやることを宣伝する脅しの道具でした。ところが、神様の正体を完全に表してくださるお方がついに、イスラエル人の前に姿を現した時に何が起きたでしょうか。人間は本当の救いと平和をくださることのできる唯一のお方を捉え、その十字架に釘付けにして殺しました。

この結果を見る限りでは、イエス様の人生は惨めな終わり方をした完敗でした。しかし、それから不思議なことが始まります。十字架にかかったそのお方のお陰で、無学で、無力で、世の中から認められていない人たちが大事にされるようになり、圧倒的な力を誇っていたローマ帝国は滅びてしまいます。「ダビデの手には剣もなかった。」聖書のメッセージを学び続ける内に、この言葉の意味への理解を深めて行くものと期待しています。自分が無力だと思って失望した時に、心に留めて欲しいです。「この戦いは主のものだ」と確信して前進しましょう。

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