2024年9月30日 礼拝説教 「主が共におられるように」
2024年9月30日 礼拝説教
「主が共におられるように」
サムエル記上 17章31節~37節、40節
31節
ダビデの言ったことを聞いて、サウルに告げる者があったので、サウルはダビデを召し寄せた。
32節
ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」
33節
サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」
34節
しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。
35節
そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。
36節
わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」
37節
ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」
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40節
(ダビデは)自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。
イスラエル軍の陣内に、ダビデの噂が立っていました。「偉そうなことを言う若者がいる。ペリシテ人のゴリアトなんて大したことないと言っている。兄さんが黙らせようとしたが、聞こうともしない。耳障りだけど、誰か、どうにかしてくれないかなあ。」噂はついに、サウル王の耳にも入りました。一喝して欲しいと訴える部下にサウルは言いました。「まずは連れて来なさい。」
サウル王には別な思惑がありました。イスラエル軍の中で、背が高い上に、鎧兜を揃えているのは自分だけでした。ゴリアトに立ち向かうなら、自分か、息子のヨナタンの他にいないのは百も承知でした。しかし、王様である自分が出る訳に行かない。ヨナタンにも無駄死にはさせたくない。生意気な奴でも何でも良い。ゴリアトの挑戦を受ける人が出たのは願ってもないことでした。
それにしても、連れて来られた若者を見たサウル王は困り果てました。「これでは話にならない。武器もなく、手に持っているのは羊飼いの杖。まだ少年ではないか。いくら何でも無理。」そう判断したサウロ王は血気盛んなダビデをなだめようとしました。「お前に行かせる訳にいかない。どう見ても勝負にならない。お兄さんの言う通りだ。戦場から離れて親元に帰りなさい。」
そう言われたダビデは譲りませんでした。「預かっている羊をライオンや熊から守ってきました。ゴリアトのような巨人とはいえども、これまで襲ってきた獣と同じ目に合わせて見せます。ライオンの手、熊の手から守ってくださったヤハウェが、ペリシテ人の手から私を守ってくださるに違いありません。」若者の勢いに圧倒されたサウル王は抵抗できなくなりました。諦めたかのように言いました。「行くがよい。ヤハウェが共にいますように。」
しかし、サウルの前に立つダビデが持つ自信に根拠がありました。ライオンに襲われ、たった一人で羊を守った時のことを思いだしました。「好き好んでライオンと戦った訳ではない。羊の命を守るために戦うしかなかった。しかし、あの時は一人だったようでいながら、一人ではなかった。生まれた時に命を与え、支え続けて来た神様がそばにいた。」状況が違うとは言っても、羊飼いダビデを支えたその同じ信仰が、ペリシテ人に立ち向うダビデをも支えていました。
教員をしていると、とんでもなく大きな夢を語る生徒や卒業生に出会うことがあります。教科指導をさせていただているので、学力が分かります。生きて来た年数も長い分だけ、夢が実現する確率も見えています。しかし、どんな場合も、生徒が持つ夢をつぶす訳には行きません。治療がどんなに困難な病気であっても、患者を健康にする努力を懸命に行うのが医者の仕事です。それと同じように、夢を抱く生徒の可能性を信じて励まし、困難そうに見えても実現させる道を示すのが教員の仕事です。
生徒の目には常に、私たちの目に隠された世界が広がっている可能性があります。東奥義塾で育った信仰と、支えてくださる神様の力を信じ、サウル王がダビデに向けた言葉を思い出します。毎年、卒業式の最後に、卒業生を送り出して歌う讃美歌の歌詞にも同じ言葉があります。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」
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