2024年6月10日 礼拝説教 「栄光はイスラエルを去った」

 2024610日 礼拝説教

「栄光はイスラエルを去った」

サムエル記上 42節~3節、10節~11節、17節~19節、21節~22

2節               ・・・戦いは広がり、イスラエル軍はペリシテ軍に打ち負かされて、この野戦でおよそ四千の兵士が討ち死にした。

3節               兵士たちが陣営に戻ると、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。」

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10節           こうしてペリシテ軍は戦い、イスラエル軍は打ち負かされて、それぞれの天幕に逃げ帰った。打撃は非常に大きく、イスラエルの歩兵三万人が倒れた。

11節           神の箱は奪われ、エリの二人の息子ホフニとピネハスは死んだ。

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17節           知らせをもたらした者は答えた。「イスラエル軍はペリシテ軍の前から逃げ去り、兵士の多くが戦死しました。あなたの二人の息子ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」

18節           その男の報告が神の箱のことに及ぶと、エリは城門のそばの彼の席からあおむけに落ち、首を折って死んだ。年老い、太っていたからである。彼は四十年間、イスラエルのために裁きを行った。

19節           エリの嫁に当たる、ピネハスの妻は出産間近の身であったが、神の箱が奪われ、しゅうとも夫も死んだとの知らせを聞くと、陣痛に襲われてかがみ込み、子を産んだ。

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21節           神の箱が奪われ、しゅうとも夫も死に、栄光はイスラエルを去ったと考えて、彼女は子供をイカボド(栄光は失われた)と名付けた。

22節           彼女は言った。「栄光はイスラエルを去った。神の箱が奪われた。」

今から三千二百年くらい前のこと、地中海周辺にある青銅器時代の文明国家は一斉に崩れ、あとかたもなく消えてしまいました。エジプトだけはかろうじて残りましたが、その他の国家が消滅した理由は、歴史の大きな謎の一つとされてきました。地層調査は、自然災害が続いたことを明らかにしていますが、もう一つの理由として、地中海の西の方から「海の民」という侵略者がやって来たことがあげられます。

イスラエルの地で、この民族は地中海沿岸の平野に街を建て、イスラエル人は山地に追いやられました。聖書の中で「ペリシテ人」と呼ばれていますが、現在、戦闘が続いているガザ地区の周辺に栄えました。イスラエル人にはない鉄の武器を持っていたので、戦争になると、イスラエル人は不利な立場に置かれました。

負け戦が続くなか、イスラエルの指導者の一人にひらめきがありました。神殿にある契約の箱を戦場に持って来れば、戦いを有利に進めることができるに違いない。大祭司エリの息子たちの協力を得て、実際に持って来ることになりました。これでイスラエル人の士気が一気に盛り上がり、陣地内に大歓声が上がりました。

騒ぎを聞いてその事実を知ったペリシテ人は焦りました。いくら戦争に弱いイスラエル人とは言っても、かつて、エジプト人をひどい目に合わせたヤハウェという神がいるという噂は、彼らの耳にも入っていました。ヤハウェのご神体が戦場に来たと言うなら、大変なことになったと気を引き締め、「皆で人一倍頑張ろう」と誓って戦いに臨みました。

結果はイスラエルの惨敗で、大祭司の息子たちが殺され、契約の箱は戦利品として持って行かれました。ヤハウェの神様が強いのは昔の話で、ペリシテ人の神様の方が強くなったのでしょうか。当時、そのように思ったイスラエル人も多く、「栄光はイスラエルを去った」と言って嘆きましたが、彼らは一番大事なことを忘れていました。頼りにしてはならない偶像と同じように、契約の箱はただの物で、それ自体には、彼らを救う力はありませんでした。

契約の箱を大事にして来たイスラエル人の信仰は間違っていたのでしょうか。決してそうではなく、契約の箱を粗末にしてはならない理由は別の所にありました。箱に入っていたのは神様との契約の象徴、十の戒めが刻んである二枚の石板でした。契約の箱が近くにあるかはどうでも良いことで、肝心なのは二枚の石板が証しとなる、神様との契約が守られているかどうかでした。守られてもいない契約をかざしたところで、ご利益なんかあるはずはなかったです。

この物語から多くのことが学べます。契約の箱と同じように、礼拝堂の正面にある十字架にこれといった魔力はなく、イエス様が罪を負って死んでくださった事実を信じることに力があります。物の力で人の関心を引こうとする時も、結果は同じです。大事なのは着ている服でも、乗っている車でもなく、心の中身であり、人格そのものです。学校の設備についても同じことが言えます。室内練習場や、人工芝があるからと言って優勝できるチームを作れるとは限りません。冷房完備の教室や、ハイスペックのコンピュータがあるからと言って、優秀な生徒が育つとは限りません。

戦いに勝つ力は違うところからやってきます。神様の栄光がイスラエルから去ったのではなく、「神様を敬う人は神様から名誉を与えられ、神様を軽く見る人は神様に軽蔑される」と言う、大祭司エリの前に現れた預言者の言葉が実現したまでのことでした。シロの街を中心に行われて来た礼拝はこれで終わりました。終わらなかったのは神様のご計画で、その物語は次の章から更に展開して行きます。

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