2023年11月13日 礼拝説教 「火の中に降って来る神」

 20231113日 礼拝説教

「火の中で降って来る神」

出エジプト記1910節~11節、16節~19節、2018節~20

10節       主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、

11節       三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。

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16節       三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。

17節       しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。

18節       シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。

19節       角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。

20

18節       民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、

19節       モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」

20節       モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」

「聖書の中心的なメッセージは何でしょうか?」この質問に対して、ほとんどの牧師は次のように答えます。「神様はあなたを愛しています。聖書は神様からのラブレターです。」間違った答えではないと思いますが、聖書を何度も通読した人間として、この答えにはいくらか、物足りなさを感じます。愛してくれる神様の話しか聞かないと、飴玉をくれる、騒いでも怒らない、わがままを見逃す、優しいお爺さんをイメージするからです。

イエス様は私たちに「お父ちゃん」と言って神様に近づくように教えましたが、その教えを最初に聞かされた人たちは強く反発しました。「天地創造の神にそのような、馴れ馴れしい呼び方をしてはいけない」と考えました。神様に愛されていることと、神様を「お父ちゃん」と呼んでも良いのは本当のことです。しかし、この事実のすごさを十分に知ろうとするなら、燃える太陽も、光まで吸い込むブラックホールをも造り、大きい罪だけではなく、小さい罪をも徹底的に憎む、正義の神様の恐ろしさを知る必要があります。

現代人なら火山の噴火だと思うかもしれませんが、シナイ山に降りて来た神様の姿を見たイスラエル人は完全に震え上がりました。力強いお方だと知っていましたが、ここまで恐ろしく、近寄りがたいお方だとは夢にも思っていませんでした。神様が、雷が鳴り響くような声で、十戒と呼ばれる十の戒めを語るのを聞かされたイスラエル人は、「死ぬ」と思うほど恐怖に怯えました。「頼むからやめてください。言われた通りにしますから、私たちの代表としてモーセにだけお語りください。」

これに対してモーセは「恐れることはない」と言いました。「神様がこのような姿で現れたのは、あなたがたに緊張感を持たせ、どのような小さい罪をも、絶対に犯してはならないと悟らせるためだ。」意地悪な話だと思うかもしれませんが、「悪いことは絶対にダメ」と言って、子供を諭す親の立場になれば、神様の気持ちがよく分かると思います。子供の幸せを願わない親はいませんが、それ以上に「絶対に悪い人間になって欲しくない」という思いがあります。

 東奥義塾に昔いた先生から聞かされた話ですが、5歳になる息子がある日、お店からパンを盗んで来たそうです。それを知って焦ったお母さんは「自分の子供が泥棒になるなんて耐えられない」と思い、自転車の後ろに乗せて警察署に連れて行ったそうです。警察官に我が子を突き出し、「この子に言い聞かせてくだい」と頼んだそうですが、警察官のお説教を受けてから家に帰ったそうです。子供は本当に怖い思いをしたと思いますが、一生忘れることのない体験になったと思います。何回言っても同じ事を繰り返す子供の手足を縄で縛り、警察を呼ぶ芝居を演じた経験なら私にもありますが、ショックを受けた子供はその日からその行動を止めました。

 ただ、残念なことに、これほど怖い体験をしたイスラエル人はその後、神様の掟を何度も破りました。新約聖書に入ると、神様はこの時とは真逆のことをして人間に罪について教えます。ひ弱な赤ちゃんとして生まれ、人間への模範となる罪のない生活を送り、それが気に入らない人間たちに殺されます。イエス様の十字架の意味の一つは、「ここまでしないと人の罪を償うことはできない」という、罪の恐ろしさを悟らせることでした。私たちの中に、罪以外の何物をも恐れない、強い心が育つことを願います。

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