2023年8月24日 礼拝説教 「落ち着いて静かにしていなさい」

 2023824日 礼拝説教

「落ち着いて静かにしていなさい」

出エジプト記145節~7節、10節~14節

5節           民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」

6節           ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、

7節           えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。

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10節       ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、

11節       また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。

12節       我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」

13節       モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。

14節       主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

「奴隷のままで良かったではないか。モーセは余計なことをしてくれた。」追って来るエジプト軍の精鋭部隊を見たイスラエル人はパニックに陥りました。手のひらを返して、それまで頼りにしてきたモーセを厳しく責めました。聖書を読んで面白いのは、登場人物を格好よく見せようとしない所です。出エジプト記はイスラエル民族の原点になる物語ですが、作者は先祖の惨めな姿を隠そうとしません。何千年たっても、イスラエル人はその記憶を大事にして、この書物を経典にしてまで残しています。

 どの民族の歴史にも誇りに思える部分と、恥ずかしくて隠したくなる部分があります。子孫として、どちらにも真正面から向き合う必要があります。先祖の立派な業績を知り、伝わって来た伝統を誇りに思うのは良い事です。しかし、その実績は自分の努力とは関係なく、自分が生まれる何百年も前から積み上げられて来た物です。誇りに思っても傲慢になってはいけません。むしろ、先祖の功績を受け継ぐのに相応しい人間であるかを自分に問いかけ、恐れながら感謝の気持ちを深めるのが正しい姿勢と言えるでしょう。

 その一方、先祖の罪を償おうとしても限界があります。自分がやった訳でもないのに謝罪を繰り返す義務はありません。しかし、生まれて来た時代と条件さえ違っていたら、自分も加わっていたかもしれないという事実から目をそらしてはいけません。かつて起きた残虐行為に加わった人と自分との間に大きな溝がある訳ではなく、同じ延長線上に立っている人間であることを意識しながら、神妙になって心を引き締める必要があります。

 聖書は人間の本性を見抜き、イスラエル人を例えにしながら、人の勝手でわがまま姿を明らかにしています。都合の良い時はリーダーを褒めまくって持ち上げ、状況が悪くなると叩きのめすのは政治や、スポーツや、芸能の世界でよく見られる現象ですが、気が付いて見ると自分たちの周辺にも起きていることです。

 モーセ自身も決して肝が据わった人間ではありませんでした。エジプトから逃げて羊の世話をしていた頃のモーセはとても臆病な人でした。エジプト軍が迫って来るのを見たモーセも内心、動揺していたに違いありません。しかし、これまでの出来事を通して、モーセは大事なことを学んでいて、悲鳴を上げて騒ぎ立てるイスラエル人に次のように言うことができました。「落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

 そもそも、イスラエル人をエジプトから導き出すのはモーセの考えではなく、神様がお定めになったことでした。モーセは神様が用意してくれた台本通りに動くだけで良かったのです。途中経過を見ると試練があり、辛いこともありました。しかし、イスラエルの民を約束の国に連れて行くのは神様の定めであり、戦うのはヤハウェの神様でした。イスラエル人に求められたのは心を落ち着かせて静かにして従う事でした。

 信仰が育っている人はどんな時にも平常心でいられます。強そうな敵が迫って来る時も、心が純真で志が正しければ、じたばたする必要はありません。入学した時の初心に帰り、東奥義塾に来た目的を思い出してください。私たちのために戦う強いお方がおられます。余計なことに気を取られることなく、進むべき方向に足を向けるようにしましょう。

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