2023年8月22日 始業礼拝 「雲の柱と火の柱」
2023年8月22日 始業礼拝
「雲の柱と火の柱」
出エジプト記13章17節~22節
17節
さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。
18節
神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った。
19節
モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。
20節
一行はスコトから旅立って、荒れ野の端のエタムに宿営した。
21節
主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。
22節
昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。
ここで初めて登場するのは雲の柱と火の柱です。この不思議な現象は出エジプト物語の欠かせない要素の一つです。やっとの思いで奴隷生活から自由になったイスラエル人を迎えたのは危険な環境でした。約束の国にまっすぐ行く地中海沿いの道もありましたが、そこには地中海周辺の青銅器文明を滅ぼした海の民に属する戦闘的なペリシテ人が住みついていました。迂回して違う道を通ることもできましたが、それは水がない、荒れ地を渡ることを意味しました。
緑豊かなナイル川のほとりから離れ、子供や家畜を連れ、増々荒れた地に進むイスラエル人の心は決して穏やかではありませんでした。エジプト人から解放された喜びは、この水がない、植物もまばらな荒れ地でどのように生きて行けば良いのかという、不安に変わりつつありました。指導者のモーセ以外は、エジプトを出たことがなく、進む方向さえも分からないまま歩き続けました。
解放されたばかりの奴隷は臆病な存在です。それまでの生活は辛かったかもしれませんが、死なない程度に食べさせてもらえたので飢え死にする心配はなく、指示に従う毎日だったので、自分で物を考える必要もありませんでした。エジプトから出た夜は「寝ずの番」をしたと書いてありますが、イスラエル人を見守るヤハウェの神様は、幼い子供のような心を持つこの大集団をとても心配に思っていました。
聖書の神様の特徴の一つは、目に見えないお方であることです。しかし、信仰心が育つ内に、目に見えなくても、いつも側にいてくださるお方として意識するようになります。お祈りする人の言葉を聞いて、目に見えない相手に話しかけるのを不思議に思うかもしれません。しかし、神様を信じている人には不思議なことではありません。神様を遠い空のかなたにいる方としてではなく、すぐ側にいるお方として意識しているからです。
心細い思いで進むイスラエル人は、目に見えない神様から特別なサービスをいただくことになりました。彼らを先導するかのように、宙に浮く雲の柱が前を進み、夜になると燃える火のように輝きました。「恐れることはない。あなたがたをエジプトから導き出したのは私だ。エジプト人に恐ろしい災いを下したのもこの私だ。雲の柱を見て、この私が付いていると悟って安心しなさい。あなたがたに恐れることはない。」これがイスラエル人に対する神様のメッセージでした。
雲の柱を見たことがありませんが、神様がすぐ側にいるという意識については、思い当たることがあります。とても密度の濃い、キリスト教的環境の中で育った私は、知識として神様の存在が深く刷り込まれていました。ただ、それは数学や理科の公式を覚えるようにして得た知識で、神様を実感することにはつながりませんでした。教会でお祈りする当番が回って来ると大人の見様見真似で、結構、様になるお祈りができました。しかし、それは集まった人たちの前で演じるパーフォーマンスのような物で、実感がこもっていませんでした。
神様を始めて、とても強く実感したのは中学校2年生の時でした。信仰的に意識の高い中高生が集まった場所で讃美歌を歌っていました。歌っている最中に熱いお湯でも浴びたかのように、力強い不思議な存在に包まれたという感覚を覚えました。神様ご自身が手を差し伸べて自分に触れてくださったという意識がり、深く感動しました。
それで何かが大きく変わった訳でもなく、日常生活は前と同じように続きました。しかし、聖書の言葉を読むと無味乾燥なつまらない言葉としてではなく、自分に直接当てられた、生きているお方の言葉として吞み込めるようになりました。祈る時も前と違って、自分の言葉を受けて止めてくれる、とても大きな存在がすぐ側にいると意識するようになりました。右斜めに手を上げると、神様がいつもその辺りにいるという感覚がありました。
このような思いに強弱があったものの、それから27年間、41歳になるまでこの感覚が続きました。しかし、今から20年ちょっと前のことでしたが、突然とも言えるほど急に、神様が消えてしまいました。きっかけになったのは仕事で、手に負えない任務を引き受け、一回は家に帰って食事をしてからだれもいない職場に戻り、朝まで仕事をして何とか破滅をしのいでいました。疲れがピークに達し、妻も子供もいるので自殺しようとは思いませんでしたが、このまま死ねたらどんなに楽だろうと思うことが何度もありました。
今になって残るのは、神様が一番きつかったあの時に、なぜ自分の側から消えたのだろうかという疑問です。神様が側にいるという意識は、とんでもない錯覚だったでしょうか。それとも、「自立しなさい」という意味で自分が突き放されたのでしょうか。明確な答えはありませんが、十字架にかかっていたイエス様も「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。
一時的な体験を含めると、神様の存在を強く感じる人はたくさんいます。しかし、信仰はそもそも、何も見えず、何も聞こえず、何も感じない時にも、信じて従うことかもしれません。イスラエル人はこの時、雲の柱と火の柱を見て神様の導きを思わされましたが、聖書の私たちに対するメッセージは、見えても見えなくても、感じても感じなくても、神様がいつもそこにいるということです。つまり、夏休みを終え、新しい学びの時を迎えた私たちの前に雲の柱が進んでいるということです。
とても暑い夏でした。休みがもっと続けば良いと思った生徒もいれば、早く学校に戻りたいと思った生徒もいたでしょう。しかし、どんな気持ちでこの礼拝堂に集まったとしても、私たちには前の自分に戻る選択肢はなく、与えられた二学期の務めを果たすために前進するしかありません。もちろん、冬休みまでに何があるかは分かりません。それまでに進路が決まり、ほっとしている三年生もいることでしょう。まだまだ先が長く、不安な気持ちに耐えながら、努力している生徒もいるでしょう。
しかし、どんな状況に置かれても、忘れないで欲しいことがあります。進む方向の上空に間違いなく、雲の柱があります。見えるか見えないかは大事なことではありません。聖書に書いてある大事な約束の言葉を読んで終わります。「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない。」二学期を迎えた私たちにも宛てられた言葉です。「昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」勇気を持って前進しましょう。
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