2023年5月1日 礼拝説教 「空回りのヒーロー」

 202351日 礼拝説教

「空回りのヒーロー」

出エジプト記211節~15

11節       モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。

12節       モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。

13節       翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、

14節       「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った。

15節       ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。 

「主が手をとって起こせば、よろめく足さえ、踊りあゆむ喜び、これぞ神のみ業。主が延べて触れば、閉じた目は開き、光を見る嬉しさ、これぞ神のみ業。ただ、主を見つめ歩めば、波にも沈まず、恐れを知らぬ信仰は、これぞ神のみ業。」

皆様が持っている讃美歌21446番の歌詞です。「これぞ神のみ業」という言葉が繰り返されています。少し難しい話になるかもしれませんが、聖書は人の業と、神の業を区別しています。人が自分の知恵と力を尽くして行うのは「人の業」です。反対に、自分の弱さを認め、自分の存在を超えた大きな力に期待をかけて行うのは「神の業」です。

聖書にある物語を読む内に分かって来ることですが、神様は自分の知恵や能力に自信たっぷりの人に力を貸しません。うぬぼれた人が成功を重ねると、傲慢になるからです。新約聖書に「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」と書いてあります。傲慢な人間は神様に嫌われますが、失敗と挫折を通して謙虚さを学ぶ人は神様に喜ばれます。聖書に出て来るほとんどの人にこのパターンが見られますが、それは出エジプト記の主人公、モーセにも見られます。

宮廷に育ったモーセの将来は保証されていました。古代の最も進んだ国のエリート教育を受け、エジプトの王、ファラオの下で高い地位に就くことになっていました。しかし、ナイル川から拾われ、ヘブライ人の乳母に育てられたことを知っていたモーセは、いくら「エジプト人だ」と自分に言い聞かせ、イスラエル人とのつながりを否定しようとしても、心の奥にある物は否定できませんでした。親近感があったのは、自分を受け入れてくれたエジプト社会にではなく、過酷な労働に苦しむ血縁の、イスラエル人に対してでした。

不正を見分けるのは簡単なことですが、それを正すのはとても難しいことです。若さの特徴の一つは情熱ですが、知恵が備わっていないと空回りします。モーセは立場が強い自分が手を貸すなら、ありがたく思ってもらえると思い、イスラエル人にヒーローとして迎えられると勘違いしていました。傲慢な態度がどれほど嫌がられるかを知る術もなく、モーセは挫折し、命からがら、荒地が広がるミディアンの地方に逃げる羽目に陥りました。

ナイル川のほとりで王女の養子として贅沢に暮らす生活が一変し、遊牧民の羊を世話しながら暮らす、テント生活が始まりました。無謀だった自分をゆっくりと反省しながら、夢を失ったモーセは新しい環境に慣れる努力をしました。一瞬にして恵まれた地位を失ったモーセは誰から見ても敗北者でした。しかし、神様の見方は違っていました。人の業が終わっていても、そこから始まろうとするのは神の業でした。

「神の求めるのは打ち砕かれた霊。打ち砕かれた悔いる心。神よ、あなたは侮られません。」これは聖書にある詩編の言葉で、詩人だったダビデ王の祈りでした。人がどん底に落ちないと始まらないことがあります。大仕事に取り掛かろうとする時、神様が求めるのは才能あふれる超人ではなく、限界を知り尽くした砕かれた人です。モーセは徐々に、そのような人に変えられようとしていました。今にも起ころうとしていたのは人の業ではなく、神の業でした。過酷な生活が続くイスラエル人にも、ミディアンの地でひっそりと暮らすモーセにも気づかれることなく、解放の時が刻一刻と近づいていました。

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