2023年4月7日 始業式 「屈辱からの始まり」
2023年4月7日 始業式
「屈辱からの始まり」
出エジプト記1章8~16節
8節
「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、
9節
国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。
10節
抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」
11節
エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。
12節
しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、
13節
イスラエルの人々を酷使し、
14節
粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。
15節
彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。
16節
「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」
皆様の先祖の中にどのような方がいますか。人は一般的に、立派な人の子孫だと思いたいものです。江戸時代にはお金を出せば身分が高い人を先祖とする、家系図を作ってもらうことができました。各家庭にこの類の物が多く伝わったので、よほど由緒ある家の物でなければ、今ある家系図のほとんどは当てになりません。
犯罪者はもちろんのこと、奴隷の子孫だと言われると腹を立てる人がいます。日本の江戸時代の後半に、人口が増えたイギリスから、多くの軽い罪を犯した人たちは流刑地のオーストラリアに送られ、刑期が終わるとニュージーランドに渡る人たちもいました。今になって、受刑者の子孫であることを誇りに思う人もいます。しかし、長い間、その事実にあまり触れて欲しくない人が多く、流刑になった先祖のことを軽く笑い飛ばした息子の言葉に、気を悪くした母親の姿を実際に見たことがあります。
新約聖書を読むと「真理はあなたたちを自由にする」と教えるイエス様の言葉にイスラエル人が腹を立て、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。」と言って反論する場面があります。自分たちの民族の歴史が書いてある旧約聖書をしっかりと読んでいれば、そのような言葉は出て来なかったはずですが、自分のルーツの事になると人は感情的になり、事実と向き合うことができなくなります。
昨年度は礼拝で、旧約聖書の1ページにある天地創造の物語から読み始め、ノアの洪水やユダヤ人の先祖となったアブラハムの物語を読みました。今年度は、旧約聖書の二つ目の大きな物語、イスラエル人のエジプトからの救出について一緒に学びたいと思います。春休み前に学んだアブラハムの子孫は、食糧難を逃れてエジプトに行きますが、そのまま住み着いてしまい、ついにエジプト人の奴隷になってしまいます。
ここにいる三年生は「最後の晩餐」の話をした時を覚えていると思いますが、信仰深いイスラエル人は毎年、この出来事を記念して集まり、家族単位で次のように告白します。「私たちは奴隷だったことを忘れません。奴隷としての生活から救い出した神様をも忘れません。」あまり自慢できる話には思えないでしょうが、これはイスラエル民族の原点であり、イスラエル人が一番大事にするのは、奴隷生活から救い出してくださった神様との関係です。
イスラエル人の苦しみを、先ほどの言葉がよく表しています。「エジプト人は・・・イスラエルの人々を酷使し・・・彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。」それだけでも大変なのに更に、生まれて来る「子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」という命令が出ます。苦難の極み。民族の恥。このようにしてイスラエル人の歴史が始まりましたが、彼らはこの事実を隠そうとすることなく、むしろ、この物語を、自分たちの信仰の中心に据え置きました。
新約聖書に戻りますが、奴隷になったことがないと主張する人たちに対して、イエス様は追い打ちをかけます。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」他人や家族に責められると人は自己弁護を始めますが、他人以上に人は自分を責めます。何故なら、自分の理想にふさわしい生活をしている人はいません。その意味で、皆の気持ちのどこかに罪悪感があります。いくら頑張っても、正しいと思っていることを実行できないし、自分や人のためにならないと分かっていることをするし、やめられません。イエス様はこの状態にいることを「罪の奴隷」と呼び、皆に当てはまることだと言います。つまり皆に罪があると言います。
人類の歴史を見ると、人は皆平等だという考えは一般的な物ではありません。自分の民族は他の民族に優れていると思うのが一般的で、身分の高い人は身分の低い人に優れていると思いました。戦争に勝った国の人は、負けた国の人にまさっていて、戦に負けたら勝利者の奴隷になるのが当たり前のこととされていました。民主主義の発祥地の古代ギリシャ社会も奴隷の労働で成り立っていました。しかし、不思議と、いつの間にか、人は皆平等だという考えが広がりました。どこから広がったかと言えば、聖書の言葉を信じている人が多い国からでした。
聖書を根拠に人は平等だと言える理由は二つあります。一つは昨年の礼拝で学んだように、皆が神様に造られた、神様の命が与えられている存在だということです。しかし、もう一つの理由があります。それは、人には大なり小なり、皆、罪があるということで、平等に神様の救いと解放を必要としていることです。とても暗い見方だと思うかもしれませんが、聖書の教えは、神様がその罪の奴隷である私たちを愛しているということであり、そこに希望の光があります。
新約聖書まで読み進むと、次の言葉があります。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」
キリスト教のユニークな所はここです。神様は罪人を愛しています。人を滅ぼそうとしているのではなく、奴隷の状態から人間を救い出して、解放しようとしています。だからこそ、ひどいことをされても、聖書は私たちに「赦せ」と教えています。皆、同じように神様の解放を必要としているし、皆、同じように愛されています。この考えがあったから、民主主義社会も社会福祉国家も可能になりました。
この一年は、世界の解放物語の原作である出エジプト記を一緒に学ぼうと考えています。イスラエル人は奴隷の身分という、最も屈辱的な出発点に立って神様の解放を体験して行くことになりますが、聖書は私たちに、同じように、屈辱的な「罪人」という立場を受け入れ、罪人を愛する神様の救いと解放を受け入れるように呼びかけています。
昨年を振り返ると、様々な反省点があると思います。高校三年生はこれからの一年で進路が決まると思うと、焦りを感じ始めているかもしれません。新入生は新しい環境に慣れて行けるか、とても不安な気持ちになっているかもしれません。部活動に励む、生徒は目標にしていた成績を上げられなかったことで落ち込んでいるかもしれません。
このような気持ちを持つ私たちに出エジプト記は次の様に語りかけます。「後ろから敵に追われ、前を見ても進む道がなくても絶望してはならない。先に見えるのが深い海、高い山、広大な砂漠であろうと、道は必ず開かれる。」そのように信じてこの一年を過ごしたいと思います。そのように信じて、大きく成長しながら前に進みたいと思います。力を合わせて2023年度を最高の年にしましょう。
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