2022年12月5日 礼拝説教 「神様は急がない」

 2022125日 礼拝説教

「神様は急がない」

創世記171節、5節、15節~20

1節              アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。

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5節              あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。

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15節          ・・・あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。

16節          わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」

17節          アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」

18節          「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」

19節          神は「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。

20節          イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。わたしは彼を大いなる国民とする。」

人間は矛盾が多い存在です。考えられないほど時間を無駄にする生き物なのに、待たされるのをとても嫌がります。待ち時間を短くする方法を発見して商品化に成功すると、大変なお金持ちになれます。お腹がすいたらすぐに食べられる。行きたいところがあったらすぐに行ける。欲しい情報があればすぐに手に入る。近代社会は、少しでも早いサービスを求めて妥協しない、人間のわがままに振り回されながら発展して来ました。

しかし、神様は急ぎません。祈りの宅急便があればと思うかもしれませんが、聖書のどこを読んでも、そのようなサービスは見当たりません。信仰深い人は必ずと言っても良いほど待たされます。一日に二、三十センチしか進まない氷河のように、神様の時間はゆっくりと進みます。しかし、普通の人ならとっくに諦めていることについても、信仰深い人は祈り続けます。

登山をする人は皆わかりますが、頂上はなかなか近づいて来ません。足を一歩ずつ前に出しても、登っているという実感が湧きません。それに耐えられない人は登るのをやめて引き返します。しかし、登山のコツがわかる人は足を止めません。一定の時間が過ぎると、林をぬけて見晴らしの良い場所に出るとわかっているからです。見下ろすと、はるか下に出発点が見え、登って来た距離を確認することができます。

 家庭崩壊を招きそうになったハガルの子、イシュマエルの誕生から十三年も過ぎていました。最初は納得していなかったアブラムも「これで良し。相続人はイシュマエルで決まり。」と思うようになりました。しかし、奴隷のハガルではなく、正式な奥さんのサライを通してアブラムに子孫を与えようと決めた神様の計画は止まっていませんでした。アブラムを通して、人は行いではなく、信じることによって正しい人間として認められると教えた神様は、同じアブラムを通して、人類にもう一つの大切な真理を教えようとしていました。

 それは何かというと、人間が「絶対絶命だ。何もかも終わった。」と思っても、それは神様にとって決して終わりではないという事実でした。そもそも、命がない物から命を作り出した神様にとって、命がない所に命を吹き込むのは簡単なことだと示そうとしていました。これも聖書の中で繰り返し現れる大きなテーマであり、最後は「私を信じる者は死んでも生きる」というイエス様の復活の教えにつながります。

 木下藤吉郎から始まり、羽柴秀吉も名乗った豊臣秀吉のように、アブラムとサライもここで名前を変えました。これは自分から選んだ改名ではなく、神様に告げられたことでした。「偉いお父さん」に近い意味がある「アブラム」に一文字を加えると「多くの人たちの父」という意味の「アブラハム」に変わります。「サライ」には「私のお姫様」という、子供を可愛がる響きがありますが、一文字を取ると「貴婦人」という意味の、王様になる人の母にふさわしい「サラ」になります。

 神様の前にひれ伏しながら「老夫婦に子供が生まれるなんて」と思ってひそかに笑ったアブラムでしたが、その日から奥様と一緒に、子だくさんの貴族にふさわしい名前の「アブラハムとサラ」としてデビューしました。お二人の長い待ち時間が終わろうとしていました。人にせかされても動じない神様は、ご自分のタイミングで命の奇跡を起こそうとしていました。次回はこの話を聞かされたサラについてのお話です。

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