2022年12月12日 礼拝説教 「主に不可能なことがあろうか」
2022年12月12日 礼拝説教
「主に不可能なことがあろうか」
創世記18章1節~3節、5節、8節~10節、12節~15節
1節
主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。・・・
2節
目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。・・・
3節
アブラハムは言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。・・・
5節
何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。」・・・その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」
8節
アブラハムは、・・・彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。
9節
彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、
10節
彼らの一人が言った。「・・・来年の今ごろ、・・・あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。
・・・
12節
サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。
13節
主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。
14節
主に不可能なことがあろうか。」・・・
15節
サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」
神様は目に見えるお方ですか。新約聖書に「いまだかつて、神を見た者はいない」と書いてあります。旧約聖書のもう一人の重要人物のモーセも、神様の声を聞いたものの、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」と言われました。聖書を全体として読むと、神様は目に見えないお方だという結論に達します。しかし、聖書はとても奥の深い書物で、このように結論を出すと、説明が付かない不思議な記事に出会います。
アブラハムの仲間の、マムレという人の樫の木の所で、旅人かと思える三人の見知らぬ人が現れ、アブラハムのもてなしを受けます。アブラハムが出したごちそうを食べながら、三人の内の一人は「来年の今ごろ、奥様のサラに男の子が生まれる」と言います。話が続く内に、その方が人間の姿になって現れた神様だということがわかります。テントの入り口で話を聞いているサラは、おかしくてたまらなくなり、聞こえないように静かに笑います。「奥様のサラは何故、笑うのですか。神様に不可能なことでもあると思うのでしょうか。」と神様は尋ねます。サラは恐ろしくなって「笑っていません。」と噓をつきますが、神様に嘘をついても通用しません。
二千年近くたってから生まれたイエス様の弟子たちはこの話からヒントを得ました。彼らはイエス様と三年間しか過ごしませんでしたが、普通の人ではないと気づいていました。後になってイエス様のお母さんのマリアから、生まれるまでの様子を聞かされました。イエス様を産んだ時のマリアはサラと違って、嫁入り前の、若い娘さんでした。しかし、天使ガブリエルから、サラと同じ言葉を受け取りました。「神にできないことは何一つない。」記憶を整理して行く内に弟子たちは徐々に悟りました。「自分たちが身近に接していたあのイエス様は、はるか昔アブラハムの前に表れた旅人と同じように、人として現れた神様だった。」
「おとぎ話は勘弁してくださいよ。もう幼稚園児じゃないんだから。」そう思って聞いている生徒もいるかもしれません。「デジタル技術、宇宙開発、医学の進歩のいずれを見ても、いくつもの奇跡が起きているが、どれも科学の力によるもので、神様を信じたからではない。クリスマスはケーキとイルミネーションで十分だ。」と思ってこの時期を過ごすのも良いでしょう。
しかし、クリスマスは私たちに違う世界を見る機会を提供してくれます。現実ばかりを見つめていると味わえない、希望の光を灯してくれます。「神にできないことは何一つない」と私たちに語りかけ、不可能に挑戦する気力を覚ましてくれます。これには古代と現代の区別はありません。サラは笑い、マリアも「どうして、そのようなことがありえましょうか」と尋ねました。近代科学を知らないお二人の反応は現代の私たちとほぼ同じで、お告げの言葉を受け入れる自由もあれば、拒否することもできました。
嘘がばれたサラは黙ってしまいましたが、イエス様を産んだマリアの言葉はとても素直な物でした。「お言葉どおり、この身に成りますように。」クリスマスの恵を逃すことなく、この季節の祝福を豊かに受け取れるように、私たちの内にも同じような心が育つことを願います。
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