2022年6月13日 礼拝説教 「裸であることを知る」

 2022613日 礼拝説教

「裸であることを知る」

創世記38節~16

8節                  その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、

9節                  主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」

10節             彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

11節             神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

12節             アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

13節             主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

14節             主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。

15節             お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」

16節             神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する。

「誰々ちゃんがやろうと言ったからやった。」情けない言い訳ですが、小学1年生の頃、自分からその言葉を言った記憶があります。罪を責められた時に責任転嫁したアダムにそっくりなのは私だけでしょうか。「私の骨の骨、肉の肉」と言って喜んだアダムに、エバをかばう気持ちは少しもありませんでした。都合が悪くなると手のひらを返し、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が…」と言って、まずはエバを造った神様を責め、次に命より大事だったはずのエバを責めました。

礼拝堂の真ん中にある十字架はキリストが全人類の罪をかぶったことを表していますが、新約聖書を読むとキリストは最後のアダムと呼ばれ、ここに出て来る最初のアダムと比較されます。最初のアダムの子孫である私たちに、他の人に罪を着せる習性が伝わりました。対照的に、最後のアダムだったキリストは、人の罪を全て背負い、信じる人に生まれ変わるチャンスを与えます。

これが失楽園の始まりですが、エバの罪がもし、森で暮らす生活を嫌がり、アダムに畑を耕して家に住む生活を要求したことだったなら、大きな代償を払うことになりました。人間が文明化した生活をするには発達した脳が必要で、頭の大きい子供を生むことになった女性の出産は他の動物に比べると、とても苦しい物になりました。生まれてから一年以上は、頭の重さを支える体力がない、歩くこともできない幼児を育てることになり、そのために長い年月をかけて育児に専念することになりました。

子供を死なせないために、頼りになる男性の支えが必要となり、経済力のある、強い男性を求めるようになりました。その結果、夫に比べると社会的身分が低くなり、男性が優位になる社会の誕生を許しました。「お前は苦しんで子を産み、お前は男を求め、彼はお前を支配する。」この言葉に抵抗を感じるかもしれません。しかし、歴史を振り返ると、女性として生きてきた人たちの大変さを、かなり正確に表していると思います。

子供は意外なほど健気に生きて行ける存在です。みすぼらしい服を着せられ、美味しいものを食べさせてもらえなくても、それ以外の生活を知らなければ、元気にふるまうことができます。第三者からひどい親に見えても、他の親を知らない子供はその親を信じ、慕い続けます。難民キャンプの写真を見ると、こんなはずじゃなかったと言わんばかりの、暗い表情をしているのは大人たちです。子供たちに不思議な活気と明るさがあり、恥ずかしいという気持ちも見られません。このような子供の気持ちが変わるのは、何かのきっかけで他の子供に自分を比べ、恵まれていないことに気が付く時です。それは今日の聖書の言葉を借りて表現するなら、「裸であると告げられる」時です。

貧しい人の数が増えると犯罪も増えると言いますが、詳しく調べるとこれは正確な見方ではありません。皆が同じように貧しいと助け合う精神が育ち、犯罪はむしろ、起こりにくくなります。犯罪が多くなるのは貧しさと豊かさが隣り合わせになる時です。なくて当たり前の世界で幸せに暮らしている人間が、余計な物を持っている人たちに出会って自信を失い、嫉妬心に蝕まれます。

禁じられた実を食べたアダムとエバは神様に問われることになります。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」私たちは、持ち物が一つもない楽園に戻ることはできません。しかし、与えられた幸せに満足し、誇りを持ち、感謝する思いを忘れない人間になるように、心がけることができます。

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