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Showing posts from April, 2020

2020年5月11日 礼拝説教 「憐みを許せない狭い心」

2020 年 5 月 11 日 礼拝説教 「憐みを許せない狭い心」 ルカによる福音書 15 章 25 ~ 32 節 25節              ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 26節              そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 27節              僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 28節              兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 29節              しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 30節              ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 31節              すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 32節  ...

2020年4月27日 礼拝説教 「広くて深い父の愛」

2020 年 4 月 27 日 礼拝説教 「広くて深い父の愛」 ルカによる福音書 15 章 17 ~ 24 節 17節              そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18節              ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19節              もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 20節              そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21節              息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22節              しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23節              それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい...

2020年4月20日 礼拝説教 「行き先は豚小屋」

2020 年 4 月 20 日 礼拝説教 「行き先は豚小屋」 ルカによる福音書 15 章 11 ~ 17 節 11節              また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 12節              弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13節              何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 14節              何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15節              それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16節              彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17節              そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 都合の良い状況が長く続き、根拠もなく当...

2020年4月13日 礼拝説教 「放蕩息子のたとえ」

2020 年 4 月 13 日 礼拝説教 「放蕩息子のたとえ」 ルカによる福音書 15 章 11 ~ 32 節 11節           また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 12節           弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13節           何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 14節           何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15節           それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16節           彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17節           そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18節           ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19節     ...

2020年4月8日 入学式 「わたしに学びなさい」

2020 年 4 月 8 日 入学式 「わたしに学びなさい」 マタイによる福音書 11 章 29 、 30 節 29節  わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたし に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られ る。 30節  わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。  大なり小なり、私たちは皆、成功者になりたいと願っています。成り行きで人生を過ごそうと思う人はいないと思います。私たち人間は「現在」という時間を犠牲にしてまで、満足の行く将来に向かう努力をすることの大切さを理解しています。だからこそ、義務教育を終えたばかりなのに、新入生の皆様は、新たな学びの場を求めてこの東奥義塾に集い、入学式の日を迎える事になりました。学ぶことは楽しいこととは限りません。学校案内に載る生徒は皆、笑顔で写っていますが、学びの成果が出るまで、辛い思いをも覚悟しなければならないことは、だれもがわかっていることです。 新約聖書時代のユダヤ人は師匠について学ぶことを「軛を負う」という言葉で表現しました。近代になって見かけることが少なくなった「軛」は、牛が牛車を引く時に首にかける器具のことです。速さでは馬が引く馬車には叶いませんが、二頭の牛の首に軛をかけて牛車を引かせると、安定した速度で、とても重い荷物を引かせることができます。ユダヤ人は貨車や農機具を引く牛の姿を、学習することの比喩として用いました。意志の強い人は独学で学ぶことができますが、効果的に学ぶなら、優れた師匠を探し出し、一定の束縛を受け入れ、じっくりと、長い時間かけて、実力を付けることに専念しなければなりません。 イエス様のような、宗教家の弟子になる人たちは、特に辛い思いをしました。長時間の断食と祈りを強いられ、それが済んでからも、食べ物について厳しい規定を守らされ、普段からも窮屈な思いをしているのに、特別な日になると更に多くの規制をかけられました。このような事をしないと神様に喜ばれないと教えられても、一般庶民の多くは「その軛が負いにくく、その荷は重過ぎる」と感じました。そのような社会環境に生きる人たちに、イエス様は「わたしの荷は負いやすく、私の荷は軽い」と言いました。 自分が「柔和で謙遜」だという人に謙虚さを感じないと言って、こ...