2020年5月11日 礼拝説教 「憐みを許せない狭い心」


2020511日 礼拝説教
「憐みを許せない狭い心」

ルカによる福音書152532

25節             ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
26節             そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
27節             僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
28節             兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
29節             しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
30節             ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
31節             すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
32節             だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

規則には二つの種類があると思います。喜んで守る規則と、内心は破りたいと思いながら、しかたなく守る規則です。校則も社会のルールも、人を幸せにするのが建前ですが、管理された立場にいると束縛のように感じ、規則を破ると自由になれると思うようになります。その一方、同じように管理されている仲間が規則を破ると、渋々守っている人たちは腹を立て、管理者に厳罰を求めます。ルールを破った人が罰を受けないと、わざわざ守っていた自分たちがばからしく思えてくるので、破った人の不幸を強く望むようになります。

「危険だから川で泳ぐな」と言われた子供たちがその指示に従うと、溺れないで済むので幸せです。しかし、仲間たちが指示に背き、川で楽しそうに泳いでいるのを見ると、どうなるでしょうか。溺れるのではないかと心配するよりは、自分たちがせっかく守った指示に背いた仲間がいることに憤慨し、大人たちから罰が下るのを期待して告げ口をします。規則を守っている自分たちこそ幸せだと悟るにはまだ時間がかかります。成長していない心がまだ狭いので、破った仲間がしっかりとお仕置きを受けることにこだわります。

放蕩息子の兄は、地味な田舎暮らしとは言うものの幸せに暮らしていました。心が広いお父さんの理想の息子として農場の責任を任され、いずれは自分の物になるとわかっていた家の財産を大事に管理していました。数年前に迎えたお嫁さんと、その後に生まれた小さな子供たちに、それなりに幸せな思いをさせる余裕がありました。遠い国に行ってろくでもない生活をしている弟の噂が時々耳に入ることもありましたが、弟と自分はタイプの違う人間だと割り切り、二度と会うことはないだろうと、気に留めないようにしていました。

一日の仕事を終えて帰宅したある日、お祭りの季節でもなく、祝い事の予定もないのに、家の中から尋常ではない騒ぎが聞こえてきました。従業員の一人を呼び止めて弟の帰りを知りました。お父さんが有頂天になり、孫の誕生祝いのために太らせていた子牛を屠り、近所の人たちを呼んで大宴会を開いていると聞かされました。兄は怒り心頭になり、家に入ろうともせず、なだめようと外に出て来た父親の言葉にも、耳を貸そうとはしませんでした。

兄は大事なことを忘れていました。親孝行な息子として父親に忠実に仕えながら、広くて優しいお父さんの心を少しも理解していませんでした。父の信頼を得、財産の管理を任されていた自分こそ幸せであり、それもお父さんの子供であるが故だと気が付いていませんでした。限りなく不幸だったのはブタの世話をして腹を空かせた弟だったのに、父親の弟への熱い思いを共有することができるほど、大きな人間になっていませんでした。

このたとえ話はルカによる福音書の15章の最初に登場するファリサイ派や律法学者に向けられた物でした。神様に喜ばれるはずのない、世間の批判を受けながら生活している人たちがイエス様の教えを聞きに集まり、間違った生き方を変えようとしていました。人類の究極の親である神様が、最も喜ぶことが実現していました。

しかし、窮屈な思いをしてまで神様が喜ぶ生活を送ろうとしていた彼らは、神様と一緒になってそのことを喜ぶことができませんでした。外見を見る限り、すべてにおいて正しかった彼らは、誰よりも幸せをいただいていることに目がくらみ、喜ばせようとしているはずの神様の心を悲しませていました。放蕩息子の兄が指すのは彼らのことであり、赦せない心の狭さに彼らの罪がありました。

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