2019年10月21日 礼拝説教 「束縛と解放」
2019年10月21日礼拝説教
「束縛と解放」
ルカによる福音書13章10節 ~ 17節
10節
安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。
11節
そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
12節
イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、
13節
その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。
14節
ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
15節
しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。
16節
この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
17節
こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
16歳になるまで私は喘息にひどく悩まされました。症状が悪化する季節になると毎晩、午前2時頃に決まったように息が苦しくなり、目が覚めました。ゼーゼーする程度なら良かったですが、やっと呼吸できる状態になり、窒息死するのではないかと思うことが何度もありました。朝になると正常に呼吸できるようになりましたが、前夜の格闘から来る披露と睡眠不足で、だるさが一日中続き、夜になると同じことの繰り返しになりました。
当時の医学界の喘息についての知識は今から思うとお粗末なもので、小中学生の頃、医者からいただいた助言は何の役にも立ちませんでした。身体を鍛えれば良い、漢方薬を飲めば良い、薬をお湯に溶かし、蒸気を吸い込めば良いなど、色々な指示をいただきましたが、何の役にも立たないのは、当事者である自分が一番よくわかっていました。
高校に入り、発作がすぐに収まる喘息緩和剤を使っている人がいるという情報が耳に入り、問い合わせて見ましたが、副作用を起こす心臓に悪い物だから処方できないと告げられました。「この束縛から解放されるならそれでも良い」と思いましたが、ある日突然、知り合いだった医者が、それまで見たことのない喘息緩和剤の吸入器を持って来て使用方法を説明してくれました。
この日は私にとって正に「解放の日」でした。吸入器を枕元に置き、発作が起きたら一回の吸入で発作が奇跡のように収まり、自由に呼吸できる幸せを味わうようになりました。それから朝までぐっすりと眠り、喘息による生活の不便はそれで終わりました。
話が変わりますが、私と近い関係にある、一人の男性が高校生の頃、軽いいじめの対象になっていました。小学生の頃からクラスメートにバカにされることが多く、高校生になっても、教室に入る男子生徒が決まったように彼の頭を叩くのが日課になっていました。本人から、それが嫌でしょうがないが、やめさせる方法が思いつかないという相談を受けました。
ある日、毎日のように叩いて来る生徒一人の胸ぐらをつかみ、大きな声で「止めろう!」と怒鳴りました。この一つの行動で彼へのいじめがピッタと止みました。これも彼にとって大きな記念すべき「解放の日」となりました。
今日の聖書の箇所に登場するご婦人は、体をまっすぐにできないほど深刻な腰痛に悩んでいました。現代医学の発見の一つは、長引く腰痛の心理的な側面です。腰痛の物理的な要因がとっくに治癒しているのに、症状を引き起こす要因が脳に残ることがよくあります。聖書ではこの症状を「病の霊に取りつかれている」と表現しています。ご婦人が必要としていたのは治療ではなく、解放の宣言でした。「病気は治った。」というイエス様の権威ある言葉一つだけで、まっすぐに立つことができました。
新約聖書の重大なメッセージの一つは「束縛からの解放」です。自分を悩ませてきた状況の解決は、意外と近い所にあるのはよくあることです。怖がっていた物、人や集団のひ弱な正体が見え、その束縛を明確に否定するだけで開放が訪れることがよくあります。
しかし、その解放をよく思う人たちばかりではないのがこの物語の大事なもう一つの教訓です。今まで束縛してきた人たちから猛反発が来るのも当然のことでしょう。その反発に負けないのが、解放の継続を確かなものにする上で大事なことです。
イエス様の言葉もう一度読みましょう。「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
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