2019年9月17日 礼拝説教 「三年たっても実が生らない木」


2019917日礼拝説教
「三年たっても実が生らない木」

ルカによる福音書136節 ~ 9

6節                  そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
7節                  そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
8節                  園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
9節                  そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

「桃栗三年柿八年」という諺は、江戸時代の「いろはかるた」の句に由来します。内容的にはほぼ正確ですが、木の苗を植えてから実が生るまで三、四年かかるのは桃や栗に限ったことではありません。リンゴもブドウも同じですが、柿は八年くらいかかります。何事も結果が出るまで時間がかかり、それも一定ではないので焦ったり諦めたりしてはいけないというのが教訓です。

今日の聖書の例えに出て来るイチジクはどうでしょうか。鈴なりに実っているブドウの木に囲まれ、一つも実を付けていない、一本のイチジクの木が立っていました。このことにいら立ったブドウ園の持ち主は、木の管理を任された園丁に切り倒すように命じました。

しかし、園丁はイチジクの木の性質をよく知っていました。イチジクは、実が生るまでの時間がまちまちで、二年で実る木もあれば、七年もかかる場合もあります。経済効率を考えたブドウ園の持ち主は、金になる収穫が期待できるブドウの木に代わって、実が生らないイチジクの木があることに腹を立てました。

対照的に、園丁は一生懸命に世話してきた木に愛着があり、イチジクならまだ実を結ぶ可能性がある事を知っていました。しかし、身分の違いもあり、主人の知識のなさを指摘するわけに行かず、木に代わって一年限りの命乞いをしました。

園丁のこの言葉を聞くといつも思い出すことがあります。最近はほとんどありませんが、三十年前に東奥義塾に勤めた頃、臨時職員会議を開いて生徒の退学の是非を議論することがよくありました。悪事を重ねた生徒でも、「私が責任を持って指導するから、どうか、もう一度だけチャンスを与えてください。」と学級担任や、学年主任が泣きそうな声で訴えることが度々ありました。

これは例え話なので、イエス様はもちろん、農業の話をしていたのではありません。一般的な解釈では、イチジクの木はイスラエル国民の象徴です。神様の特別な守りと導きを受けた民族だったからこそ、それに相応しい実が生ると期待されていました。

しかし、イエス様の目に映ったのは、貧しい人たちから容赦なくお金と労働力を絞り出し、病気の人を見捨て、夫がいない女性や、両親がいない子供の世話をしない、自己中心的な冷たい社会でした。ここでイエス様は、神様にこのような国を守り続ける義務はなく、反省がないと国の滅亡が間近だと警告しています。

木は、地面から吸い上げる養分を、背丈を伸ばすことにばかり当てると、豊かな実りは期待できません。実がたくさん生るように、枝の成長を止める、剪定作業が必要になるのはこのためです。高校生の皆様の姿をこの例えに当てはめると何が言えるでしょうか。

高度経済成長のさなか、「金の卵」ともてはやされ、集団で都会に働きに出たのは皆様と同じ年齢の未成年たちでした。中学校を卒業して、すぐに自立させられた彼らと、今の高校生の生活との違いは歴然としています。難しい数学の問題を解いても、サッカーボールを追いかけて走り回っても、何のお金にもなりません。
  
しかし、今の時代の親は実がすぐに生らなくても良いと考え、木として伸びるだけ伸びて欲しいと願うことが多くなりました。その反面、いくらこの園丁のように、親や教師が命乞いをしても、いずれは社会というぶどう園の持ち主が実の収穫にやってきます。まずは一人前になって生活費を稼ぐように求め、いずれは妻や子供、老いた両親まで養う生産力を要求します。

高校生に求められる実は、主に学業やスポーツの成績かもしれませんが、聖書はむしろ、心が結ぶ実を強調しています。「悔い改めの実」、つまり、反省の後に続く生活態度の変化も一つの実です。その他に、真心のこもった感謝の言葉、周囲を明るくする元気な笑顔、友の傷をいやす静かな優しさもすべて大切な実です。

仮に学業成績が伸びなかったとしても、入学時に見られなかった心の実が卒業するまでに現れるなら、園丁として働いてきた私たちの努力は無駄ではありません。安心して社会に送り出すことができます。時間がかかっても、実を結ぶ木になるように祈りましょう。

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