2019年7月22日 終業礼拝 「管理責任を問われる私たち」
2019年7月22日終業礼拝
「管理責任を問われる私たち」
ルカによる福音書12章35節 ~ 48節
35節
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
36節
主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
37節
主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
38節
主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
39節
このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
40節
あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
41節
そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
42節
主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
43節
主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
44節
確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
45節
しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
46節
その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
47節
主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
48節
しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
社長不在。教室に先生がいない。親が外出して今夜は留守番。英語には「ネコがいなくなるとネズミが遊べる。」ということわざがあります。監視の目がないと気がとても楽になります。気持ちが緩み、ゆったりとした気分になりますが、仕事が進まなくなり、時間がアッという間に過ぎていきます。監視する人が突然、戻ってくることがあります。真面目に仕事や勉強をしているふりをしようと、急いで姿勢を整えます。
しかし、監視人の目をだますことはできません。不自然な沈黙がすべてを物がっています。チェックが入り、時間がたった割に作業が進んでいないことが明らかになります。「一体これまで何をしていたんだ!」と怒鳴り声が響きます。大なり小なり、みんなにこのような経験があると思います。気を引き締めなければ良い結果が生まれないと知りながら、自由な時間が与えられると、有効に活用できません。
聖書が書かれた時代、裕福な家族に僕という、従業員と奴隷の中間くらいの身分を持つ人たちがいました。僕たちは家の主人の機嫌を損なうことのないように、いつも気を遣っていなければなりませんでした。当時の結婚式は花嫁の実家で行われ、式を終えると皆で花婿の家に向かいました。そこで結婚を祝う会が始まって真夜中まで続き、時には深夜になってもお開きになりませんでした。招待を受けて出かけた家の主人が、何時に帰ってくるかがわからないので、留守番をしている僕たちの立場は辛かったです。
いつまで起きて待てば良いのかわかりませんでした。僕たちは当然、眠くなりました。しかし、主人の帰りを、灯を付けたまま待ち続けた僕たちにご褒美が待っていました。家の主人は結婚式の帰りに持たされたご馳走の分け前を振る舞ってくれました。僕たちは食事の席に着かされ、帰って来た主人が給仕する立場に回り、身分が低い僕たちをもてなしました。
必ず「神の国」をいただくという約束を受けたイエス様の弟子たちはこの例えの中で、しばらくは忍耐させられる時期が続くと告げられました。優遇された立場を期待していたペトロはちょっとがっかりしたようです。直属の弟子である自分たちには当てはまらない話だと思いたかったです。そのことについて確認をとろうとすると、例外はなく、陰で地味な仕事をコツコツとやる人だけが、表に出て良い思いをすると諭されました。実際のところ、十字架と復活に続いてイエス様が姿を消した後、残された弟子たちは死ぬまで、人に仕える質素な生活に徹し、この教えを忠実に守りました。
「その日、その時はだれも知らない。」と教えられていましたが、弟子たちは自分たちが生きている間にイエス様が帰って来ると固く信じていました。イエス様の実の弟が書いたと言われているヤコブの手紙に次の言葉あります。「農夫が忍耐しながら大地の実りを待つように、あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる日が迫っているからです。」
オフコースの初期の頃、小田和正は人類の滅亡を預言しているかのように聞こえる、「キリストは来ないだろう」という曲を発表しました。小中高とキリスト教系の学校に通った小田和正は、人類が核戦争か環境破壊で滅びる前に、イエス・キリストが戻って世界を救うという話を聞いていたのでしょう。「だれにでもほんの少しの愛さえあれば、この世界も変えて行けたのに。あのやさしいこころは二度とはかえらないから。」という歌詞の後に、「キリストはもう来ない、キリストは来ないだろう。」と結んでいます。
「人の子は思いがけない時に来るから、あなたがたも用意していなさい。」生きている限り、待ち続けた弟子たちのもとにイエス様は戻って来ませんでした。信じ続けた彼らは騙され、意味のない人生を送ることになったのでしょうか。彼らにそのような思いはなかったようです。死ぬまでこの希望を心に抱き、緊張感を保ちながら待ち続けた弟子たちは、かえって実りの多い、豊かな生涯を送ることができました。
明日から始まりますが、小学校への入学以来、毎年楽しみにしてきた夏休みは今年もやってきました。社会人になると、自由に過ごせたこの一か月は、不思議な思い出になります。夏期講習や部活動で毎日の過ごし方がほぼ決まっている生徒も多いと思いますが、どのように埋めれば良いのかも分からない、余りあるほどの自由時間が目前に迫り、ワクワクする気持ちを抑えられない生徒も、少なくはないと思います。
夏休みの始まりは、管理された立場から、自分を管理できる立場への転換点です。つまり、未成年でありながら、この期間は自分に任された、思いのままに使える、現実とは思えない時間が手に入ります。四月から全力疾走し、力を出し切ったのであれば、しっかりと休養をとり、新学期に備えるのも時間の有効な使い方かもしれません。何の目標も持たずに、責任を放棄するのも一つの選択肢かと思います。しかし、心の中にある良心の声に耳を傾けるなら、与えられた時間を賢く管理したいと思うはずです。いかようにもなる時間なので、この一か月間は、一人一人の生の姿が明らかになる時間であり、終わって振り返ると、本当の自分が見えてきます。
「自分の人生だから」という言葉をよく耳にします。しかし、長く生きれば生きるほど、どこかにいる、誰かから与えられた人生であることを認識するようになります。親の育て方や、学校の先生の指導方法に不満を持つのは簡単なことです。もっと良い環境の中で、もっと立派な親に育てられ、もっとレベルの高い学校に行けたら、今頃どうなっていただろうと嘆くこともあるかもしれません。
しかし、思い返せば、今持っている物のすべては、生きて来た環境と、その中の出会いが可能にしたもので、それらのものから切り離した、自ら作り上げた自分を探しても、どこにもそのような人はいません。年を取って実績が増え、責任を引き受けた自分の成果を見て自慢したくなるかもしれません。しかし、それもすべて、世話する相手がいたから可能になったことばかりです。努力の恩恵を受ける人がいて初めて、恩恵を授ける人の成果に意味があります。
みんな、幸せになりたいと思いますが、幸せ感は思いがけない時にやって来て、つかんだと思ったら、次の試練が始まります。幸せな気持ちは、与えられた時間を有効に活用し、引き受けた任務をしっかりと果たした後に味わうものであり、人生のゴールではありません。
「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」管理を任された夏休みという時間を終えた私たちが、この例えに出て来る僕たちのような心境を味わいたいものです。8月26日に、日焼けした元気な顔を合わせて再会したいと思います。思い出に残る、有意義な一か月になりますように。
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