2019年6月24日 礼拝説教 「烏と野原の花」
2019年6月24日礼拝説教
ルカによる福音書12章22節 ~ 28節
22節
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。
23節
命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
24節
烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
25節
あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
26節
こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。
27節
野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
28節
今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。
人間は心配する動物です。他の動物と違って自分の将来の姿を思い描くことができます。その結果、夢を膨らませ、計画的な行動を取ることができますが、その一方、悪い予感に悩まされることもあります。心配事は人から笑顔と活気を奪い、睡眠障害やうつ病の原因になるので、心理学者はこの現象の研究に多くの時間を費やしてきました。
その結果、平均的な人の心配事が現実になる可能性は15%程度しかなく、実現したとしても、思ったほど悪くない結果に終わる可能性が8割以上あることがわかりました。つまり、心配した通りに悪いことが起きる可能性は3%程度しかなく、その3%のほとんども自分の力でどうすることもできない、心配しても無駄なことです。
「働かぬもの食うべからず。」は聖書の教えです。カラスや、野原にある花を参考にするように教えたイエス様は、計画性や、勤勉さを否定してはいたわけではありません。イエス様が教えているのは「思い悩むな」ということです。それはイエス様が勧める「信仰」という姿勢の正反対だからです。要約すると次のようになります。「神は烏をも養ってくださる。草でさえ美しく装ってくださる。思い悩むな。信仰の薄い者たちよ。」
「気休めを言うな。」と反発する人もいると思います。「神様など、目に見えない、つかみどころのないものを当てにしてどうする。」しかし、信仰深い人が「神の養い」を意識する理由は二つあります。一つは人の命を養い続ける自然界の偉大さです。地震、津波、洪水などによる自然災害はありますが、私たちがこのような災難を強く意識するのは、自然界の普段の姿があまりにも優しく、気前の良いものだからです。
もう一つは、私たちを守る人間社会の力です。戦争や犯罪による被害があるのは間違いありません。しかし、日常的に私たちが体験するのは、周囲の人たちの支えと、優しさと、励ましであり、一人で悩むのを止めると、私たちを守り、力を貸してくれる、強力な応援部隊が至る所にあることに気が付きます。
このような形で自分が養われ、守られてきた背景に、目に見えない神様の手があったと気が付くことを「信仰」と言います。今までの自分を振り返り、支えとなった大きな力を認識することがその第一歩となります。しかし、運動によって筋肉が鍛えられるように、信仰にも成長があります。信仰が試され、強化されるのは、力が弱くなり、自然界にも、人間社会にも見放されたと感じる時です。
旧約聖書の魅力の一つは、絶望的な状況にあった時、神様に向かって泣き叫んで救われた人たちの物語がたくさんあることです。詩編にはそのような祈りがいくつもあります。18編はその一例です。「死の縄がからみつき、奈落の激流がわたしをおののかせ、陰府の縄がめぐり、死の網が仕掛けられている。苦難の中から主を呼び求め、わたしの神に向かって叫ぶとその声は神殿に響き、叫びは御前に至り、御耳に届く。」107編。「彼らは、荒れ野で迷い、砂漠で人の住む町への道を見失った。飢え、渇き、魂は衰え果てた。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救ってくださった。」
聖書は悩んだ時に目を向けるべき方向を示しています。最後に新約聖書の終わりの方にあるペトロの第一の手紙の言葉を読みます。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」
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