2019年6月10日 礼拝説教 「私たちと聖霊」


2019610日礼拝説教
「私たちと聖霊」

ルカによる福音書128節 ~ 12節 

8節                  「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。
9節                  しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。
10節             人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。
11節             会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。
12節             言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

十字架にかかって死んだはずのイエス様が、圧倒的な力と権威を帯びて地球に戻り、天使たちを遣わして世界各地から弟子たちを集める。これは新約聖書の中心的な教えの一つです。「帰って来たウルトラマン」のような話だと言うかもしれませんが、二千年近くたった今も、「イエス様の再臨」というこの出来事を心待ちにしているキリスト教徒が世界中に大勢います。

最後のどんでん返しとも言えるこの出来事が起きると、「実は私もイエス様の仲間だ」と言う人がたくさんいるでしょう。そこで、本物と偽物を見分ける必要がでてきます。本物の弟子は、イエス様がひどく不人気な時でさえ、人の前で自分が弟子だと宣言する人です。

イエス様は自分こそ、神の国を実現させるメシヤであると信じていたのは、ほぼ間違いありません。しかし、現状分析も冷静で、ローマ軍を追い出してユダヤ人の自由を勝ち取るどころか、日に日に迫っているのは自分の逮捕と処刑であることをよく理解していました。

その点で、根拠もなく勝利を信じて何千、何万人の支持者を道ずれに死んで行った他のメシヤたちとは違いました。死ぬのは自分一人で、弟子たちが一緒に命を落としてはならないと固く決心していました。弟子たちが師匠を失う時期が近いと予感したイエス様は、自分がこの世にいなくなってから、どう振る舞うべきかについて教え始めました。

一人の人間として目の前にいるイエス様をののしり、十字架にかけて殺せと騒いだ人たちにも、心を入れ替えて弟子になるチャンスが残されていました。しかし、イエス様がいなくなってから、その精神を心に秘め、同じ生き方をしようとする人たちまで否定するなら、赦される可能性がゼロになると警告しました。そこまで心を頑なにすると、「聖霊への冒涜」になり、絶対に赦されないとイエス様は教えました。

イエス様の弟子たちは周囲の目にも止まらない、知恵が足りなさそうな弱虫の集団でした。イエス様を逮捕した権力者たちは、彼らの存在を完全に無視しました。しかし、それから数か月以内に弱虫の代表ペトロと、その仲間のヨハネはイエス様を死に定めたユダヤ人の最高議会の前に立ち、一歩も譲ることなく、自分たちの主張を堂々と述べていました。この話は使徒言行録の4章に書いてありますが、権力者たちは彼らが無学で普通の人であることに驚きながら、ある事実に気が付きました。彼らはナザレのイエスと一緒にいた人たちでした。

「権力者のところに連れて行かれたときは、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」語り出したペトロは「聖霊に満たされていた」と書いてあります。イエス様がそこにいないのに、信じている人たちがいると、あたかも本人がいるかのように思わせる不思議な力。それはイエス様が十字架にかかる前からやって来ると予告した「聖霊」でした。

  皆様は間もなく、同じような状況に置かれることがあるでしょう。頼りにしていた親や教師は目の前からいなくなります。三年の間、生きる指針をくれた母校、東奥義塾からも出て行くことになります。独りぼっちになり、意地の悪い人間に問い詰められ、人生の難題に立ち向かわなければならない時がやって来ます。

 今日の聖書の言葉はそのような時への備えとして与えられています。「何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」ぶれることなく、これまで培った生き方をそのまま続けるなら、どこに行っても孤立無援ということは決してありません。これまで一人一人を支えて来た力が、目に見えない形で、いつまでもそばから離れることはありません。

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