2019年3月8日 終業礼拝 「心のメンテナンス」


201938日終業礼拝

ルカによる福音書1124節~28節 

26節          そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。
27節          イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
28節          しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

 イエス様の敵は攻撃の機会さえあれば、手段を選びませんでした。前回と同じように、議論の対象は悪霊追い出しでした。治療が成功したかに見えると、悪魔の力で悪魔を追い出したと主張したのを前回の話から覚えていると思います。今回の話の背景は推測になりますが、治療を受けた人がまた悪くなったことを材料に攻撃してきたようです。心の問題は難しく、現代医学にも限界があります。一旦良くなったように見えても、後退することがよくあります。

 以前、お酒を断とうとする人たちが集まる「断酒の会」のメンバーとの付き合いがありましたが、アルコール依存から抜け出そうとする彼らの闘いに、凄まじいものがありました。健康な人は「適度に飲めば良いのでは」と言いがちですが、身体が一度でもアルコールに依存すると、百パーセント禁酒しないと、必ずと言っても良いほど逆戻りし、事態がさらに悪化します。
  
「断酒の会」のメンバーは、禁酒してから何年たったことを祝う賞状やメダルを贈り合って励まし合います。この会のメンバーは、何十年も禁酒してからでも「アル中の○○です」という「断酒の会」、お決まりの自己紹介を続けます。お酒を断っても一生アル中という意識があります。少し前まで、聖餐式で本物のぶどう酒を使う教会が多かったですが、本の少しでも飲むと逆戻りするアルコール依存症の方に配慮して、ほとんどの教会は今、ぶどうジュースに切り替えています。アルコール依存症という悪霊はいつ戻って来るかわからないからです。

心の奥は深く、その複雑な動きをコントロールするのは至難の業です。主の祈りの中に「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しました」という言葉がありますが、人を赦せない思いや、憎しみを捨てるのがクリスチャンに課せられた、大事な修行の一つです。キリスト教の基礎的な部分に、「絶対に赦せない」という思いを抱き続けるのは、健康で心に安らぎのある、前向きで幸せな生活を維持する上で、最も邪魔になるものだという考えがあるからです。

最近、リーアム・ニーソンという俳優がインタビューの最中に言ったことが活発な議論を巻き起こしました。ニーソンは「シンドラーのリスト」の主演として有名になりましたが、スターウォーズが好きな方なら、エピソード・ワンのクワイ・ガン・ジンと言った方がピンと来るかもしれません。北アイルランドで育ったニーソンは二十代の頃、親しい関係にあった女性が強姦されたと知らされました。加害者が黒人男性と聞き、怒りの感情を抑えられなかったニーソンは、一週間以上、金属製の棍棒を手にしてベルファスト市内の黒人街を歩き回ったと言いました。誰でも良いから、黒人がちょっかいを出して来たら殺してやろうと思ったそうです。

一週間たった頃、「自分は一体何をやっているのだ」と我に返ったニーソンはカトリックの司祭のところ行って自分のしていたことを告白しました。世論は真っ二つに分かれました。四十年以上も前のことだったのに、「何てひどい奴だ。ニーソンに映画の役を二度と与えない。」という反応がありました。その一方、一部の黒人たちからも、「人種的偏見と、人間の心の奥深くにある怒りの恐ろしさを表に出す、勇気ある告白だった。」と称える声もありました。

ニーソンのインタビューの内容と、それに続いた議論をユーチューブの動画で見ましたが、自分にも思い当たることがあったのでニーソンの話を前向きに捉えました。人種や男女間の問題を話題にすると、人の心の奥に潜む、深くて暗い、闇の部分から目をそらすことができません。面と向かって表に出さないと何も変わりません。話を聞いてつらい思いをした人たちもいただろうと思いますが、真実を追い求めるために、気分を害す人が出るのは大なり小なり、覚悟しなければならない時があります。

今は少し柔らかくなっていますが、私は右人差し指の付け根の近くに、皮膚が固くなっているところがあります。昔から激しい怒りを体験した時に、その場所に強く噛みつく癖があったからできたものです。家族以外の人の前ではめったないことですが、一人で昔のことを思い出し、何年も前に起きた悔しい出来事を思い出すとそのような行動をします。怒りの感情と言っても、そのほとんど自分の親父に向けられたものです。
  
45年以上も前に起きたある事件が繰り返し、繰り返し記憶の中でよみがえり、その度に右手のこぶしを握り、指の付け根に強く噛みつくことによって、心に沸いて来る殺意を抑えて来ました。気が狂ったような話だと思う方もいるかもせれませんが、中には「自分にもそのようなことがある。」と思う方もいるでしょう。

平常心でいると、「この世に恨んでいる人は一人もいない。心は平安で、憎しみや許せない思いはすべて消えている。」と自分に言い聞かせます。しかし、気の緩みからイエス様が言う、「戻ってみると、家は掃除をして、整えられ、そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着くと、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」という言葉の意味が、よく分かるような気がします。そのような時、心のメンテナンスの必要性を痛感します。

聖書はこのような思いからの解放が、とても重要なことだと教えています。「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」という言葉は、赦さないと自分の罪も赦されないと解釈できます。聖書が教える憎しみや恨みからの解放に、主な手段として二つの方法が提示されています。最初の方法は自ら人に傷を負わせてきた罪を思い起こし、自分こそ赦された罪人であることを深く意識することです。赦されている人が赦すのは当然のことだと考えると心が軽くなり、前向きなことに思いを寄せることができるようになります。

もう一つの方法は、恨んでいる人の不幸ではなく、幸せを願うことです。「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」恨んでいた人を、何とも思わないのを目指すのではなく、相手の幸せを積極的に願いなさいという教えは、何ともイエス様らしい、無理な理想のように思えるでしょう。しかし、あの七つのもっと悪い悪霊を連れて戻って来る霊を追い払う最善の方法はこれです。

この話を聞いていた聴衆の中に一人の女性がいました。感極まってイエス様の母親を称え始めましたが、イエス様の反応は少し冷めていしました。この時期は、母親を含む家族との関係がギスギスしていたので、ここでは血縁や家庭環境を乗り越え、自立する必要を強調しました。皆様も、中学校までの実績を見ると、家庭環境の影響が大きかったはずです。しかし、高校生になった今の境遇を、先祖から受けた遺伝子や、親の育て方のせいにするのを止めましょう。自分の責任で、自分の足で立つ決意をしてください。「幸せなのは神の言葉を聞き、それを守る人です。」

今年度の最後の定期試験が終わり、明日から春休みに入ります。今まで引きずって来た学校生活のマイナス要素を清算する絶好の機会です。新年度は、成績も欠席日数も、ゼロからの再スタートです。すべてをリセットし、新鮮でさわやかな気持ちで新年度を迎えられるよう、心のメンテナンスをしっかりやってください。4月初めに再会することを楽しみにしています。

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