2019年2月18日 礼拝説教 「負け惜しみ」

2019218日礼拝説教
「負け惜しみ」

ルカによる福音書1114節~23節 

14節             イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。
15節             しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、
16節             イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。
17節             しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。
18節             あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。
19節             わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
20節             しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
21節             強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。
22節             しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。
23節             わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

家族全員がロック・グループ、クイーンの曲が好きで、公開早々、一緒に「ボヘミアン・ラプソディ-」を見に行きました。映画の題名になっている主題曲は、生まれ育った環境の型を破ろうと、もがき苦しむ若者の心境を歌っていますが、後半に「Beelzebub has a devil set aside for me」という歌詞があります。日本のファンが翻訳に苦しんだ部分ですが、「ベルゼブブは私のために一匹の悪魔を取って置いている。」と言えばほぼ正確な訳になると思います。つまり、悪魔の親分が、自分を苦しめるために一匹の小悪魔を特別に指名していて、とても辛い思いをしているという訴えになっています。

今日の聖書の箇所に登場するのは、同じ悪魔の親分であるベルゼブブの別名、ベルゼブルです。イエス様の敵は窮地に追い込まれ、このベルゼブルの力を借りて奇跡を行っていると主張しました。窮地というのは、イエス様が口を利けなくする悪霊を追い出したことでしたが、現代人は「それがどうしたの?」と聞きたくなる内容だと思います。理解していただくには、背景にある二つのことを説明しなければなりません。まずは当時の悪霊追い出しの事情について話しましょう。

重い心の病気を患い、治療する効果的な方法もなく、長期入院を強いられる精神科の患者は今も大勢います。新約聖書時代には、そのような方に悪霊が付いていると信じられていました。悪霊追い出しを職業とする人たちもいましたが、目に見えない存在でも、名前さえわかれば上手く操れると考えていました。そういう訳で、治療は悪霊の名前を聞き出すところから始まりました。名前が判明すると、次は悪霊を名指しにして、病を患っている人から出て行くように命じました。問題は口の利けない人の場合で、何も言えないので悪霊の名前を聞き出す方法がなく、手の施し様がありませんでした。

背景にある二つ目のことはメシア級の奇跡という考えでした。イエス様が生まれる少し前に活動していたユダヤ教のラビたちから始まって、ある言い伝えが広がりました。ローマ帝国の支配から解放してくれる救い主であるメシアが来ると、その方は自分にしかできない、メシア級の奇跡を起こす。三つか四つあるメシア級の奇跡の一つは、口の利けない人から悪霊を追い出すことでした。

14節の後半に「悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」と書いてありますが、見物人の興奮はメシアがついに来たという思いから来るものでした。その一方、とても困惑したのはイエス様に敵対している人たちでした。説明に困り果てた彼らの主張は理屈にもなりませんでした。イエス様が悪霊とグルになって悪霊追い出しをしていると言いました。「そんなバカな話があるものか。」と言わんばかりに、イエス様は彼らの主張を退けましたが、気にくわない人の成功ほど、頭に来るものはありません。特に嫌いな人ではなくても、身近な人が注目を浴びて絶賛されると、人の心に足を引っ張りたくなる暗い部分が暴れ出します。

有名大学に入れば、母親が教育ママだとか、高いお金を出して家庭教師を付けていたとか、主要教科以外は全然ダメだとか、課外活動は一切やっていないとか、あれこれと理由をあげ、本当は自分と変わらない、大したことのない人間だと言える口実を探します。スポーツで全国大会に出ても、社会貢献をして新聞に載っても、私生活の面で幸せそうにしていても、何かと理由を付け、素直に喜んであげれば良いことなのに、功績の価値を下げようと、あら捜しをする性格が、人間の心に根強く住み着いています。

どのような事情があろうと、人の成功の裏に努力があり、見上げたものがあり、模範にすれば自分の成功にもつながるものがあります。すばらしい物をすばらしいと素直に認め、自ら学び、徳を高める機会として逃さないようにしましょう。さもないと、世界の救い主が目の前を通っても、心の闇が邪魔して見えなくなる恐れがあります。

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