2018年12月3日 礼拝説教 「忙しい人のイライラと幸せ」

2018123日礼拝説教
「忙しい人のイライラと幸せ」

ルカによる福音書1038節~42

38節             一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
39節             彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
40節             マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
41節             主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
42節             しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 セレブ並みに有名な預言者、ナザレのイエスが自分の家に来る。そのことを聞いた時からマルタは最高のご馳走を出す準備に取り掛かり、手を休めることなく走り回りました。やっと来たかと思うと大勢の人が詰めかけ、家の中が大変盛り上がりました。お客様に失礼のないように、マルタは休まずに食べ物や飲み物を運んでもてなしました。マルタは強制されて働いていた訳ではありませんでした。その場を成功させようと、自分の思った通りに計画を進め、目論見通りに上手く行っているはずでした。

しかし、気持ちがとてもハイになっていたマルタは疲れてきました。次第にイライラした気持ちになり、あることに気が付きました。一生懸命に動いていているのは自分だけで、他の人たちは皆、ただ座って楽しそうにイエス様の話を聞いている。特に気になったのは弟子たちに交じってイエス様の足元に腰を下ろしている妹のマリアでした。つい先ほどまでとても機嫌の良かったマルタの心は、腹立たしい気持ちでいっぱいになりました。

身近なところにマルタのような人はいませんか。もしかしたら、自分と重なる所を感じませんか。色々なアイディアを編み出し、率先して働き、皆のためになることをしていると確信している時、誰よりも生き甲斐を感じているのは自分のはずです。しかしある日、急に気持ちが沈み、不平不満が噴き出し、気が付いたら周囲の人たちを恨んでいる自分がいます。これほど頑張っているのに、自分の苦労をわかってくれる人がいない。当たり前にやってもらっていると思われている。

このような気持ちになるのを「マルタ現象」と言っても良いでしょうか。それまで、精力的に動き回っていたマルタは不幸だったのでしょうか。そうとも言えないでしょう。マリアのことが気になるまで、一番幸せな気持ちになっていたのはマルタでした。思い描いたことを実行に移し、忙しく動いている人こそ、その時に限って言えば、だれよりも人間らしい幸福感を味わっています。問題は疲れがたまって体力が落ちて来た時にどうなるかです。

自立した人であれば、一生懸命に働き、成果を上げられた自分の行動に満足を覚え、休息をとって静かに生きていることの幸せを噛み締めるようにします。しかし、未熟な人は周囲の人たちから感謝の言葉を期待し、それが聞こえて来ないと世の中を恨み、自分のように頑張っていない人を非難します。責めれば責めるほど気持ちが暗くなり、幸せな気持ちが逃げて行き、人が近づきたくない不満の塊のような人になっていきます。

労働を平等に分配するのは理想的ですが、集団の動きを研究する社会学者によるとそれは叶わない夢であり、仕事の量は自然と不平等になるものです。一般的にどんな職場を見ても、二割の人間が八割の成果を生み出し、成果を上げている人と、上げていない人の給料に大した差はありません。では、八割の成果を出している人たちは不幸な人たちでしょうか。決してそうではなく、毎日、生き甲斐を感じて働いているこの人たちの方です。

この幸せを奪う一番の原因は何でしょうか。生産的に働いている自分の幸せから目を背け、自分のようにできない人たちを責める思いを抱くようになることです。働ける自分は幸せ。頑張れる自分は幸せ。給料が同じなのに、隣にいる人の倍の仕事をしている自分も幸せ。そこにいないと皆が困る自分も幸せ。そして何よりも、これで良いと思える自分が誰よりも幸せ。このような心を育てるように努めましょう。

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