2018年11月5日 礼拝説教 「隣人とはだれか」
2018年11月5日礼拝説教
「隣人とはだれか」
ルカによる福音書10章28節~37節
29節
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
30節
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31節
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
32節
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
33節
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
34節
近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
35節
そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
36節
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
37節
律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
「良きサマリア人」のたとえ。聖書物語の人気ランキングを作るとしたら、確実に上位に入るのはこの話です。標高1000メーターのエルサレムから、マイナス250メーターのエリコに下るこの道は今もあります。荒れた、岩場を通る25キロも続く下り坂です。当時は旅人が岩陰から飛び出す、盗賊に襲われることの多い場所だったので、このたとえ話にはかなりの現実味がありました。
いろいろな解釈がありますが、学校や職場で起きるいじめの構図をよく表している話だという見方ができます。旅人には仲間がいなく、危険な場所を一人旅していたという弱みがありました。冷たい見方をすれば、危険な場所だと知りながら、無防備な姿で通る方が悪く、「もっと警戒心を学びなさい」と言われても仕方のない人でした。ここにいじめられっ子の姿が見られます。
その弱みに付け込んだのは盗賊でした。彼らの目に、旅人は都合の良い餌食にしか見えませんでした。彼らの心に、貴い存在として尊重すべき人間が目の前にいるという思いは微塵もありませんでした。ここにいじめっ子の姿が見られます。憂さ晴らしの対象にしたり、暇つぶしに面白がったり、自分と違うものへの嫌悪感を露わにするのに都合の良い人を発見すると、容赦なくいじめていい気分になろうとする人が、どの集団にも潜んでいると思った方が良いと思います。
尊敬される身分の方が二人通りかかりました。被害に合った人の姿に気が付きましたが、知らん顔をして通り過ぎて行きました。何てひどい人たちだと思う前に、二人の心境を考えて見てください。周囲にだれもいないので、半殺しにされた人を助けずに放っておいても、誰にもバレません。盗賊が近くにいるなら、余計なことをして助けようとすると、自分もやられてしまいます。警戒心が強い人なら、これがすべておしばいで、襲われたように見えた人が実は次の被害者をおびき寄せる、おとりの可能性があると思ったかもしれません。
余計なことをしない方が良い。自分のことで精いっぱいだ。助けに行ったら予定が全部狂ってしまう。誰かが助けるべきだろうが、自分だけ、良い格好して正義の味方になる必要はない。目立ったことをして注目を浴びたら立場が危うくなる。知らんふりするのが一番だ。いじめが起きると、大多数の人たちはこのように思います。つまり、助けようとしなかったこの二人は、その場に居合わせた普通の人を表しています。
敬神愛人。神を敬って人を愛するのは東奥義塾の校訓です。しかし、どんな人にも手を差し伸べようとすると切りがない。人の世話ばかりしていると自分の生活がなりたたない。それを指摘した律法学者はイエス様に尋ねました。「わたしの隣人とはだれですか。」イエス様はこのたとえ話をして、隣人がだれかではなく、「だれが隣人になったか」と尋ねました。困った人に対して自分に責任があるのかではなく、その時に出会った自分が隣人になれるかが問題だということを指摘しました。
普段は会話もしない他人でも突然、その人の隣人になるチャンスが舞い込んでくることがあります。困っている姿を見て、自分に責任があるのかと考える前に、どのようにすれば隣人になれるのかを考えて見てください。「良きサマリア人」から学ぶべき、最初の教訓はこのことです。来週はこの同じ話について、別の角度から考えたいと思います。
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