2018年11月26日 礼拝説教 「女性のいるべき場所」

201811月26日「日礼拝説教
「女性のいるべき場所」

ルカによる福音書1038節~42

38節             一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
39節             彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
40節             マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
41節             主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
42節             しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

エルサレムの都のすぐ近くにべタニアという村がありました。はっきりした根拠がある訳ではありませんが、ユダヤ人社会に疎まれた病人や貧しい人たちが暮らしていた場所だったという見方があります。ガリラヤ出身の人たちが多く住んでいた場所で、ガリラヤ地方から巡礼に来る人たちを泊める宿がいくつも並んでいたという説もあります。いずれにせよ、ベタニアはイエス様が好んで立ち寄る村で、そこに住むマルタ、マリアとラザロの三人兄弟の家を特にひいきしていました。

ラザロの性格を知る手がかりはほとんどありませんが、二人の姉妹、マルタとマリアの性格の違いは、教会でよく話題になります。勤勉でよく動くマルタ。思慮深くておっとりしたマリア。年齢はわかりませんが、マルタが長女だったという印象を受けます。イエス様を客として迎えたマルタは、当時の習慣に従って、女性が守るべき立場をよく心得ていました。「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」と書いています。対照的に、マリアはイエス様の弟子たちに交じって足元に座り、教えに聞き入っていました。当時の感覚で、これは非常識な行動でした。教師の足元に座って教えを受けるのは男性の特権で、その中に女性が交じるのは相応しくないことでした。

 妹のその姿を見たマルタの気持ちは穏やかではありませんでした。弟子たちの間にマリアがいるのを許すイエス様の呑気な態度にもイライラしました。何しろ、マリアが自分のつとめを放棄し,イエス様の言葉に耳をかたむけていたので、自分の仕事が倍になっていました。憧れの預言者が来て嬉しいのは分かるが、「非常識にもほどがある。」そう思ったマルタはイエス様に訴えてマリアを注意するように促しました。

「女性のいるべき場所は台所。お勉強に励む男性たちに交じっているのは相応しくない。」と言われる時代に、思いのほかイエス様はマリアの見方をしました。いつも、時代の常識に逆らい、進歩的な発想をする方であるイエス様は、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言いました。女性が学ぶ権利を主張したイエス様の教えが広まった国を中心にその後、女性の権利の確保が進められ、平等なパートナーとして、男性と共に、社会の責任を担うようになったのはこのやり取りとは無関係ではありません。

 近代以前のどの社会にも、女性が学問を学ぶ必要がないという考えがありました。イスラム原理主義が強い国では今も、暴力に訴えて女性の教育をやめさせようとする人たちがいます。日本国内でも、女性に不利な形で受験システムを設定していた大学があるという指摘があり、大きな社会問題になりました。外見で異性を魅了し、子供を産むことができる女性に対して、男性は自然と劣等感を抱くのでしょうか。何故か無意識の内に、体格、腕力、経済力、学力のあらゆる面で、女性を圧倒したいという本能が働くようです。

 しかし、自分に不利になっても嘘をつかない、苦しい時に責任逃れをしない、本当に強い男性は、女性がライバルとして現れ、自分のよりも上に立つことがあっても気にしません。いざとなると頼りにされるのは自分の方だとよくわかっているからです。「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言わせる、心の余裕があります。男性と女性が認め合い、尊重し合う社会の芽生えがここに見られます。この短いエピソードに、意外なほど深い意味があります。

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