2018年11月19日 礼拝説教 「神主と教授と北朝鮮人」

20181119日礼拝説教
「神主と教授と北朝鮮人」

ルカによる福音書1030節~37

30節             イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31節             ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
32節             同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
33節             ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
34節             近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 
35節             そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
36節             さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
37節             律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 「サマリア人」はみな親切な人たちだったのでしょうか。イエス様のこのたとえ話が有名になり、世界各地で、困った人を助ける団体の名前に「サマリア」という言葉が付くようになったのはちょっと皮肉な話です。何故なら、イエス様が祭司とレビ人を悪者にして、サマリア人を善良な人として描いたのは、当時のユダヤ人の気持ちを逆なでして、挑発するためだったからです。現代の日本人の感覚に合わせて書き直すと、次のような話になります。「伊勢神宮の神主様と東京大学の教授様がやって来たが、命が危ない人を助けようとしませんでした。しかし、ある親切心あふれる北朝鮮人がやって来たら、自分を顧みずに助けてくれました。」

このように言うと、当時の人たちに、このたとえ話がどのようなインパクトを与えたかを想像することができると思いますが、聞いていた人たちの反発はそれ以上のものだったはずです。サマリア人とユダヤ人の仲の悪さは紀元前538年頃にさかのぼるものでした。戦争に負けたユダヤ人社会の上層部は現在のイラクに強制移住させられていましたが、中東を治める帝国が変わり、彼らにイスラエルの地に戻ることが許されました。戻って来た人たちの目に映ったのは廃墟となった町でしたが、最初に手掛けたのは神殿、つまり礼拝堂の再建でした。

その時、「仲間に入れてくれ。」と言って、作業に加わろうとした人たちがいました。強制移住の時にイスラエルに残された下層階級の人たちの子孫でしたが、戻って来たユダヤ人は彼らを拒絶しました。何故なら、強制移住の期間中、別な地方から連れて来られた人たちとの交流があり、混血の民族になっていたからです。

この仲間に入れてもらえなかった人たちはエルサレムと、イエス様の故郷があるガリラヤ地方に挟まれたサマリア地方という場所に住み着き、サマリア人と呼ばれるようになりました。エルサレムの神殿建設に参加させてもらえなかったので、彼らはサマリアに自分たちの神殿を建てました。しかし、紀元前111年頃、その建物はユダヤ人に破壊されました。ヨハネによる福音書に登場するユダヤ人は、イエス様を侮辱する意味で「サマリア人」と呼びました。このことからもわかるように、ユダヤ人とサマリア人の間にある溝は深く、互いに激しく憎み合っていました。

イエス様は今で言えば、ヤクザや売春婦のような人を仲間の輪に入れておきながら、やむを得ない時以外は、違う民族の人たちとは付き合いませんでした。外国人を仲間に入れるようになったのは、イエス様の教えを受け継いだ弟子たちの代からでした。では、イエス様は何故、軽蔑されて嫌われた民族の人をたとえ話のヒーローにしたのでしょうか。対立する人たちを挑発し、怒らせるのがお好きな方だったのでしょうか。確かに、イエス様にそのようなところがあったかもしれません。しかし、私たちは別なところにその理由を探さなければならないと思います。

たとえ話に登場するこの人はサマリア人の典型ではなく、私たちが理想とすべき、良き隣人の典型として描かれています。良き隣人は、損得を計算せず、相手が自分の助けを受けるのに相応しい人かどうかを考えないで行動します。「隣人を自分のように愛しなさい。」という教えを自然体として身につけています。相手との距離、個人的な好み、民族、性別、身分や収入は関係ありません。普段から、下心のない、純真な良き隣人になっているのです。

イエス様はいつも、達成不可能と思える理想を掲げて私たちを困らせます。頑張って合格ラインを越えようとする人は、必ずと言って良いほど挫折します。多少は達成できたとしても、同じようにできない人たちを非難する、醜い心が芽生えてきます。正しい姿勢は「良き隣人」という理想を前にして、失格者である自分を認識し、神様の助けを謙虚に追い求めることです。「罪人のわたしを憐れんでください。」と言って自分の立ち位置を常に確認し、理想に少しでも近づくことができるように、神様からいただける力の注ぎを毎日期待して生活するのは、イエス様に喜ばれる人物の基本姿勢です。

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