2018年9月10日 礼拝説教 「生活を変えられない人たち」

2018910日礼拝説教
「生活を変えられない人たち」

ルカによる福音書1010節~16

10節             しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。
11節             『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。
12節             言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
13節             「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。
14節             しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。 
15節             また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。
16節             あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」

 今日の聖書の箇所に六つの地名が出てきます。まずは、子供の目に触れさせてはいけない、淫らな快楽の都として有名な都市、三つ。つまり、乱れた生活の罰として神に滅ぼされた町、ソドムと、フェニキア人の地中海貿易の拠点として栄えた二つの港町、ツロとシドン。対照的に、近くに住んでいる人以外は、だれも聞いたことのない小さな村、三つ。つまり、ガリラヤ湖の北部にあるコラジン、ベトサイダ、そしてカファルナウム。まったく釣り合いの取れていない地名が、三つずつ並んでいますが、だれよりも世界の歴史を揺るがした人物、イエス・キリストが活動拠点に選んだのは、情報が集まりやすい、商人であふれかえった貿易拠点、ツロとシドンではなく、片田舎にあるこの小さな村の方でした。

 村人は普通の常識では説明できない奇跡を目の当たりにしました。噂を聞いて、大勢の人たちが村に押し寄せて来ました。イエス様の弟子の中に、これらの村の出身者もいました。しかし、村人の大半は不思議そうに奇跡を眺めても、肝心な神の国についての教えには無関心でした。イエス様はこの有様を嘆き、同じような奇跡がツロやシドンで行われたら、住民がこぞって生活を改めただろうと言いました。コラジン、ベトサイダとカファルナウムの住民は、活動期のピークを迎えたイエス・キリストに出会えるという稀にしかない、恵まれた立場に置かれていたのに、心が動くことなく、彼らの生活は少しも変わりませんでした。

 人は流行を追って、新しい物に飛びつく性質があると思うかもしれませんが、それは表面的な、飾りの部分について言える事であって、人の根幹にある性質や、日常的な生活様式について言える事ではありません。年を重ねるに従ってこの傾向が強くなっていきますが、人は他人に変わって欲しいと思っても、自分のことになると、あまり変化を好む生き物ではありません。人が変わるのを眺めるだけなら良くても、自分が変わる様に迫られると、人は口実や屁理屈を並べて、激しく抵抗します。

 東奥義塾のICT化が進んだのを見て、塾長が技術革新の最先端で生きてきた人間だと思うかもしれませんが、昔から私はICTにはとても消極的な、保守的な人間でした。大学時代に、今に比べると、原始的ではありましたが、コンピュータ・プログラミングを教えてくれる選択制の授業がありましたが、興味が湧きませんでした。

仕事を始め、小学生に間違えられる日本語しか書けないことに恥をかかされて初めて、市場に出回り始めたワープロという物に手を出しました。ノート・パソコンが店に並び始めると、値段も高く、買う気になれませんでした。しかし、定規と鉛筆と消しゴムを使って作った資料を用意して会議に行き、ロータスという当時は新しかった、エクセルのようなソフトを使って資料を作ってくる相手のスピードと正確さについて行けない悔しさから、とうとう初めてのノート・パソコンを買うことにしました。今になって言えるのは、ICTの発展の節目ごとに乗り遅れた自分が、その都度損したということです。人類の生活に革命をもたらす、この新しい技術をもっと早い時期から積極的に学ぶべきだったという後悔があります。

 何年も続けた生き方と別れるのは辛いことです。生徒がもっと効果的に学習できる、新しいスタイルの授業テクニックを教わっても、授業に自信がある教員であればあるほど、何十年も続けて来たやり方にこだわります。新しい物を取り入れるのに大きな勇気がいります。


自分が悪くないと言い張ってきた人間が、自分を振り返り、本当に悪かったのは自分だと認めるのは更に難しいことです。しかし、素直に聖書の言葉を読み、純真な気持ちでキリストと出会った人間には可能なことです。今日の聖書の言葉は、毎日、このように学校礼拝に集う私たちこそ、特に気に留めるべきものではないでしょうか。

Comments

Popular posts from this blog

2019年3月8日 終業礼拝 「心のメンテナンス」

2021年11月22日 礼拝説教 「信仰を支える仲間」

2023年7月10日 礼拝説教 「人の心を固くする神」