2018年8月27日 始業礼拝 「覚悟が試される時」 

2018827日始業礼拝
「覚悟が試される時」

ルカによる福音書957節~62

57節             一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
58節             イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
59節             そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
60節             イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
61節             また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
62節             イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

教会の前を通ると、看板の横に聖書の言葉を見ることが多いと思います。よく見かける言葉はマタイによる福音書の1128節です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」とても優しい響きがあり、一度は教会に入ってみたいと思わせる言葉です。辛い生活からの救いを求める人たちに向けられた、イエス様の代表的な言葉の一つです。

東奥義塾に来ても、このような言葉を聞ける場所がありますか。すぐに思いつくのは保健室、学習支援室、宗教主事室だろうと思いますが、心に安らぎと慰めを与える言葉が聞ける場所は他にもたくさんあります。東奥義塾は学校生活に疲れ、友だちに相談してもらちが開かいないと悩み、家に帰っても心が落ち着かない生徒が、元気を取り戻せる、安らぎを提供する学校です。

対照的に、今日の言葉には冷たい、厳しい響きがあります。「人の子には枕する所もない。」「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」つまり、「甘い夢を見るな。覚悟がふらついている者はさっさと帰れ。」この違いは一体何を意味するのでしょうか。

ルカによる福音書を読み続けると何度も「神の国」という言葉に出会います。神の国では貧しい人が幸せになり、空腹は人が満腹になり、泣いている人が笑うようになります。お金がなく、お腹を空かして悲しんでいる人たちにイエス様が言いました。「神の国が近づいた。辛い生活が楽になる世の中が今に来るから、泣かなくても良い。」

ただ、ここに一つの問題がありました。この夢のような国を実現させるのは一体誰だったしょうか。イエス様はその夢を現実に変える働き手、つまり、どこまでも付いて来る弟子を求めていました。今日の聖書の箇所にある厳しい言葉を聞かされたのは悩める民ではなく、弟子入りしようと思ってイエス様に近づいて来た人たちでした。

感動して後を追ってくる人はいくらでもいましたが、その大部分は役に立つ人たちではありませんでした。最初の人はイエス様に付いて行けばホテルに泊めてもらえると思ったのでしょうか。「弟子たちは皆ホームレスのように野宿している。それでも大丈夫か。」と尋ねるイエス様の言葉を聞いて、この人はやる気を失ったようです。

次の人は、家族や仲間の納得を得ようとしていました。その人に「本当に大事な事に目標を定めたら、家族であろうと、友だちであろうと、あれこれと意見を言う人の声を雑音だと思って耳を貸すな。」と言いました。三番目の人は猶予期間が欲しくて、決断を先延ばししようとしていました。その人に「今、すぐに行動を起こさない人を相手にする気はさらさらない。」と言いました。

「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者。」耕運機のない時代でしたが、種蒔きの前に畑を耕す必要がありました。牛や馬に鋤という道具を引かせ、それを操作しながら一直線に進みましたが、簡単な作業ではありませんでした。足元にでもなく、右や左にあるものにでもなく、はるか先にある目標に視線を定めて進まないと、まっすぐに進むことができませんでした。ましてや、後ろを振り返る人は話にもなりませんでした。

昨日は、生徒の皆様の夏休みの最後の一日になりました。それまでの一か月を有意義に過ごせたかと聞かれたら、個人差が大きく、様々な返事が返って来たと思います。しかし、今日になってもう一度、始業礼拝があり、皆が同じスタートラインに立って学習作業を始めようとしています。目標は1221日の終業礼拝です。二学期は一学期と三学期に比べると出校日数が多く、学校周辺が雪に覆われるまで、次の長期休暇はやって来ません。長丁場を覚悟して取り掛からないと気力が続きません。

そのような立場に置かれた私たちに、今日の聖書の言葉が向けられています。「一度鋤に手をかけたものは、よそ見しないでひたすら前に向かって進みなさい。」夏休み中は暇つぶしに長時間ゲームをしたり、友だちとスマホで延々とたわいのないやり取りをして過ごしたりした事を反省している生徒がいるかもしれません。しかし、この日の、この時からは違います。だらだらした時間の過ごし方では、自分がさっぱりしないばかりか、家族や周囲の人たちをもうんざりさせます。

自分で考え、自分で行動を起こすことができる人間として生まれた喜びを体いっぱいに表現すべき時は、明日でも来週でもなく、今です。神の国を実現させる協力者となることは、社会変革を起こす、大げさなことになるのは、稀にしかない事かもしれません。しかし、毎晩、就寝時間になると、後悔なく熟睡できることを、日常とするのは不可能なことではありません。日々、人を思いやる、有意義な生き方を心掛けるのも十分に可能な事です。

自分を初めとする周囲の人たちを不幸に落とす行動や言葉が何かは、だれに言われなくてもわかることです。癖になっている悪循環とすぐに決別して下さい。その一方、毎日欠かさずに続けると、良い結果が保証される言葉や行動パターンもあります。簡単なことで良いので、その内の一つや二つをすぐに実行してください。

 まだまだ先のことと思わないで、良いクリスマスとお正月を迎えられるように行動を開始し、振り返ることなく、よそ見せずにゴールに向かって邁進してください。力の限界を意識できるところまで努力を重ね、今まで不可能に思えた領域に、勇気を出して足を踏み入れてください。二学期の四か月間は、決して退屈することのない、目の輝きを絶やすこともない時間になることを心から期待しています。

Comments

Popular posts from this blog

2019年3月8日 終業礼拝 「心のメンテナンス」

2024年2月26日 礼拝説教 「同行してくださる神」

2023年7月10日 礼拝説教 「人の心を固くする神」