2018年7月23日 終業礼拝 「気にくわない連中」

2018723日終業礼拝
「気にくわない連中」

ルカによる福音書949節~56

49節             そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」
50節             イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」
51節             イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
52節             そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
53節             しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
54節             弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。
55節             イエスは振り向いて二人を戒められた。
56節             そして、一行は別の村に行った。

地球の人口の約五分の一を占める民族なので、当然のことかと思いますが、「中国人はああだ、こうだ」と言った類の話を耳にすることがよくあります。しかし、個人的な印象になりますが、中国に一度も行ったことのない人や、行ったとしても短期間しか滞在していない人の口からこのような発言が多く聞かれ、長く滞在した人はこのような事をあまり言いません。

八年前に中国に渡り、三年間滞在することになりましたが、行く前の私も、漠然と「中国人は」というイメージがありました。しかし、想像している中国人には名前も顔もなく、それは自分の頭の中で勝手に作り上げた空想に過ぎませんでした。今になって「中国人は」と言えば、懐かしいような、ちょっと寂しいような、「また会いたいなあ」という気持ちが湧いてきます。何故なら、「中国人」という言葉は今の私の記憶に、数えきれないほどの顔と名前を呼び覚ましてくれるからです。以前、抱いていた漠然としたイメージに代わって、友だちになってくれた人や、生徒や、同僚の思い出があるからです。

中国で出会った中国人も同じように「日本人は」というと、現実離れしたイメージを抱いていました。大学のキャンパスで生徒や同僚と、日中関係についてかなりシビアな話をさせていただきましたが、彼らの日本人に対して抱く不正確なイメージに代わって、私が知っている、顔も名前もある日本人の姿を紹介することに多くの時間を費やしました。八十年前に起きた事件に基づいて現在の日本人を評価しようとする人に、「過去にそのような事があったかもしれないが、私が知っている今の日本人にそのような人はいない。」と言い続けました。

英語には「レーシズム」という言葉がありますが、「人種差別主義」のほかに「人種主義」という意味もあります。科学的な考え方が進むに従って、現代社会はこの思想を完全に否定しました。血のつながりや特定の集団への所属に基づいて人を評価するのは間違っているだけではなく、悲惨な結果を生むことが明らかになったからです。

極右思想の極みと言われるファシズムの一種、ドイツのナチズムは、人として生きる権利まで民族で判断し、ユダヤ人として生まれたという、それだけの理由で、六百万人の男性と女性、老人と子供を、捨て犬を処分するかのように殺してしまいました。

極左思想の極みはソ連のスターリンや、中国の毛沢東の下で行われた地主の殺害、カンボジアのポルポトの下で行われた知識人の虐殺でした。特定の階級に所属することを理由に、数百万単位の人たちが殺されました。殺されたのは食料生産や社会運営の知識を持っている人たちだったので、結果としてひどい飢饉が起こり、数千万単位の人たちが餓死しました。これは大昔のことではなく、皆様のお爺さんやお婆さんが生まれた後のことで、ご両親や私が若かった頃も続いていたことです。

顔も名前もわからない人たちを個々の人間としてではなく、単に自分たちと違う、気にくわない連中だと決めつけるのが、悲劇の始まりでした。自分に原因がある不幸も、特定のグループのせいにして、そのグループに所属する人たちに憎しみをあらわにするようになりました。時間がたつと、気の狂った、恐ろしい集団が形成されました。人間社会はもともと縄張り意識の強い、ためらいもなく侵入者を殺す、部族社会でした。身近な例を上げると、仲の悪い南部藩の人間に出会うことのないように、明治時代に入るまで、津軽の人たちは八甲田山系に足を踏み入れることはほとんどありませんでした。

明治政府が幕藩体制を壊滅させ、一つの民族である「日本人」という意識を育てたため、このような感情がほぼ消えたと言っても良いでしょう。しかし、人間が持つこのような本能を呼び覚ますのは、決して難しいことではなく、現在のアメリカ、中東やヨーロッパはもちろんのこと、ネット動画を見るのが趣味なら、現在の日本とも、無関係な話ではないのがよく分かると思います。

甲南大学には田野大輔という教授がいます。毎年、ファシズム体験授業を開きますが、学生には人気があります。学生全員に白いワイシャツとジーパンを着させ、大きな声を出させ、教授に対する崇拝的な従順を強制します。野外授業では、カップルになってキャンパスを歩く男女を皆で糾弾します。この活動が終わるとアンケートを取ります。その結果、学生たちは次のように言います。

「全員で一緒に行動するにつれて、自分の存在が大きくなったように感じ、集団に所属することへの誇りや他のメンバーとの連帯感、非メンバーに対する優越感を抱くようになった。大声が出せるようになり、カップルを排除して達成感が湧いた。集団の一員となることで自我を肥大化させ、「自分たちの力を誇示したい」という万能感に満たされる。」

ここまではスポーツ競技の応援団の気持ちに近いものがあるので、あまり問題を感じないかもしれませんが、その続きもあります。「上からの命令に従い、他のメンバーに同調して行動しているうちに、自分の行動に責任を感じなくなり、敵に怒号を浴びせるという攻撃的な行動にも平気になってしまう。『指導者から指示されたから。みんなもやっているから』という理由で、参加者は個人としての判断を停止し、普段なら気がとがめるようなことも平然と行えるようになる。権威への服従と集団への埋没が自分たちを道具的な状態に陥れ、無責任な行動に駆り立てられる。」

更に、「最初は集団行動に恥ずかしさや気後れを感じていても、一緒に行動しているうちにそれが当たり前になり、自分たちの義務のように感じはじめる。途中から慣れてしまい、声を出さない人に苛立ち、自分の行動の責任を指導者に委ね、命令を遂行することにのみ責任を感じはじめる。いつの間にか、一緒にやりとげようとする共犯者に変貌してしまう。」

心理学者の研究によると、所属集団が特定の弱者を攻撃し始めると、ほとんどの人は何らかの形でその攻撃に加わって、強くなった気になり、その行為に快感を覚えるようになります。規模が小さくなりますが、クラス内で起きるいじめにも似たような心理があります。集団の流れに抵抗して別行動を取るのは小さな少数派で、その少数派に自分が加わる可能性が極めて低く、誰よりも、悪魔に変身する可能性のある自分の心に警戒する必要性があります。

今日の聖書の箇所に、イエス様の弟子の一人、ヨハネの存在が目立ちます。まずは、自分たちの仲間に入っていない人が、勝手にイエス様の名前を使っていたので、やめるように注意したことをイエス様に報告しました。次は、お兄さんのヤコブと一緒に、歓迎してくれなかったサマリア人の村に対して、ミサイルをぶち込もうと言わんばかりの、危険極まりない発言をしました。ヨハネは弟子たちの中で一番若かったと言われていますが、縄張り意識の強さと、ライバル集団への憎しみに関しては、先輩たちに負けないものを持っていました。
  
イエス様は二回ともヨハネをたしなめました。一回目は、入会手続きを済ませたのかとか、許可をキチンととったのかが些細なことだと教え、流派が違っていても、同じ目標に向かって努力する人は皆、味方だと教えました。二回目は、気にくわない連中が目に付くからと言って、集団全体を攻撃するのはとんでもないことだと教えました。

人を見ると、私たちは同じような特徴を持つ人間を一緒くたに見る傾向がありますが、イエス様は先入観を捨て、一人一人を注意深く、個人として観察するように教えました。新約聖書の時代から二千年がたちましたが、現代人である私たちも、この教えに耳を傾ける必要があります。集団ごとに人のことを決めつけて批判したり、バカにしたりしないように、自分の心に注意する必要があります。

所属集団、例えば日本人であることに誇りを持つことは良い事です。しかし、所属集団が立派だからと言って、自分も立派だとは限らないので、勘違いをしないようにしましょう。出身校、家庭背景、肌の色などは、一人の人間を評価する基準として甚だ不十分であり、最後は一人一人が、その人格と努力に応じて評価されます。根拠のない、間違った評価をしないように気を付けましょう。

 今月は期末試験と義塾祭という、二つの大きな出来事がありました。今日から青春の大きな思い出となる夏休みが始まります。大人になると、このような、まとまった休みが取れなくなるのは十分に承知していると思いますが、ボーとしているとアッという間に終わります。今までに知らなかった物に出会い、知らなった自分を発見できるように、高校生の特権であるこの時間を十分に活かし、今日から具体的な行動を取ってください。

827日に、目を輝かせながら登校する皆様と一緒に、二学期を迎えることを心から楽しみにしています。まずは校内大会から始まります。夏休みが終わっても、暑い夏はもうしばらく続くことになります。それまでは自分の安全をしっかりと守り、この年にしか体験できない、有意義な夏をお過ごしください。

Comments

Popular posts from this blog

2019年3月8日 終業礼拝 「心のメンテナンス」

2024年2月26日 礼拝説教 「同行してくださる神」

2023年7月10日 礼拝説教 「人の心を固くする神」