2018年6月13日 礼拝説教 「ナザレのイエスを誰と見るか」

2018613日礼拝説教
「ナザレのイエスを誰と見るか」

ルカによる福音書918節~22

18節             イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
19節             弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
20節             イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
21節             イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
22節             次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。

旧約聖書は、新約聖書の三倍の長さもあるのに、礼拝説教の引用は新約聖書の方が圧倒的に多いのが気になりませんか。旧約聖書はキリスト教徒が共有する、ユダヤ教の経典で、キリスト教の主役はあくまでも新約聖書の中心人物、ナザレのイエスだと言えば説明がつくと思います。

旧約聖書にはたくさんの預言者が登場しますが、時代と場所に合った形で、神様の思いを庶民に直接伝えるのが役割でした。預言者番付を作るなら、ユダヤ人の心の中で、トップにいるのはいつもエリヤでした。一般大衆はイエス様がエリヤの生まれ変わりではないかと噂していました。とても光栄な事でしたが、イエス様の弟子たちはその程度の話には、あまり感心しませんでした。

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という質問に対してペトロは「神からのメシアです。」と返事しました。預言者の言葉に恐れをなす王様もいましたが、あくまでも国家のわき役で、何人いてもかまわないのが預言者でした。しかし、メシアとなると別問題でした。「神からのメシア」はダビデ大王の家督を継ぎ、ローマ軍を追い出し、イスラエルを繁栄と幸せに導く、後にも先にもない英雄的な指導者を期待して使う言葉でした。

「メシア」を名乗るのはとても危険なことでした。ローマ軍からは大衆を熱狂させ、反乱を起こす可能性のある革命分子として監視され、ユダヤ人の支配階級からもにらまれることになります。しかし、四六時中、お供をしている弟子たちにはイエス様の正体がバレていました。ナザレのイエスは単に、一般大衆が言うような預言者ではなく、メシアとしか言い様のない特別なお方でした。

現在も同じように、ナザレのイエスについて人の意見は分かれています。しかし、キリスト教が嫌いな人でも、イエス様本人について大方、好意的な意見を持っています。優れた思想家だったとか、善良なお方だったことについて異を唱える人はほとんどいません。ただ、キリスト者になって洗礼を受けようとする人は、もう一歩踏み込んだ形でナザレのイエスについて問われます。「あなたはそのお方を何者だと言うのか。」

ペトロの告白を聞いたイエス様は、そのメシアだという主張を否定しませんでした。しかし、そのことを誰にも言わないように、厳しく戒め、それから、弟子たちが持つメシアのイメージから、大きくかけ離れたことを言い始めました。「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される。」

ルカによる福音書のムードはここからシビアなものに変わって行きます。どの教会にもあるように、この礼拝堂にも十字架がありますが、この物語はこれから、イエス様の十字架の刑に向かって行きます。ペトロは間違ってはいませんでした。確かに、ナザレのイエスは神のメシアでした。しかし、弟子たちの期待に反して、このメシアは政権を取って敵を追い出す、英雄らしき、格好の良い人ではなく、排斥され、殺される運命を背負っているお方でした。

キリスト教はこの時から三百年も、公に認められた宗教になることなく、迫害された少数者の信仰として生き延びました。その意味では、教祖が亡くなる以前から武装集団として活動を始めた、もう一つの世界宗教との違いは明白です。イエス様はこの時から数か月以内に死ぬことになっていました。しかし、その続きもあり、「三日目に復活する」という、謎めいた言葉を付け加えました。

「あなたはわたしを何者だと言うのか。」この問いはイエス様に出会う一人一人に向けられたものであり、何と返事するかによって、一人一人の人生は今後、大きく左右されます。

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