2018年5月14日 礼拝説教 「少女よ、起きなさい」
2018年5月14日礼拝説教
「少女よ、起きなさい」
ルカによる福音書8章49節~56節
50節
イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
51節
イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。
52節
人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」
53節
人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
54節
イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。
55節
すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。
56節
娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。
会堂長のヤイロは焦っていました。医者に頼んだが、治療に効き目がなく、十二歳になる娘の容態が悪化するばかりでした。以前、会堂の建設費を出してくれたローマ人の部下が病気になり、ナザレのイエスにお願いしたら命が助かった事を思い出しました。そのイエス様が近くにいるはずだと聞きましたが、探しに行ったところ、前の日に湖の向こう岸に渡って、今はいないと知らされました。二、三日が過ぎ、娘の命がもうダメかとあきらめかけたその時、イエス様が戻って来たという知らせが耳に入りました。藁を掴む思いで頼みに行ったところ、家に来ると言ってくれました。
ホッとしたのも束の間。イエス様は待ち構えていた群衆に囲まれ、進むのが遅いばかりか、「服の裾に触った人がいる」と言い出して周囲が大騒ぎになり、更に時間を取られました。「娘の方が先だろう。」と思って焦るヤイロのもとに、とどめを刺す情報が届きました。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」もう来ても無駄だと言うのですが、イエス様の反応はいつもと変わることなく冷静でした。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる。」
そのまま、家に向かって行きましたが、情報が回るのが早く、先に着いたのは泣き女たちでした。日本では姿を消しましたが、世界各地に、今もこの風習が残っている所があります。死者の家族や知人ではなく、お葬式を盛り上げるために雇われる、泣くのが商売の人たちです。ヤイロの家はウソ泣きのような甲高い声を上げて大騒ぎする人たちであふれかえっていました。「泣くな。死んでいるのではない。眠っているのだ。」叱るようにして、イエス様はこの人たちを追い出しました。泣きわめく声は、イエス様をバカにする、あざ笑う声に変わりました。
泣きわめく声に重なるように聞こえて来る「ダメだ。無駄だ。あきらめろ。」という言葉。それとは対照的に「泣くな。死んでいるのではない。恐れることはない。ただ、信じなさい。」という言葉。
絶望するよりは、希望を持ちたい。恐れ疑うよりは信じたい。そう思うのはごく当たり前のことのように思うかもしれません。しかし、困難な状況に差し当たった時、人の心が希望の方には向かうとは限りません。「もうダメだ。何をやっても無駄だ。」そう思い込むと、力む必要がなくなり、ある意味では楽になるからです。
希望が叶わなかったり、信じても裏切られたり、努力しても報われなかったりするのが怖いので、人の心は自ら、絶望とあきらめの方に向かうことがあります。しかし、本当の生き甲斐を体験したいと思うなら、必要なのは、立ち上がり、希望を抱いて信じ続けることです。
「イエスは娘の手を取り、『娘よ、起きなさい』と呼びかけられた。」何かの形で、私たちも皆、このような呼びかけを常に受けています。朝起こして、弁当を持たせ、送り出してくれるお母さん。登校中に笑顔で「おはよう」と言ってくれる友だち。「起立、礼」という号令に続いて、その日の注意事項を伝えてくれる担任の先生。
毎日会う、この人たちは、「恐れることはない。ただ信じなさい。」というメッセージを私たちに送り続けています。一人一人のそばに必ず、「娘よ、起きなさい」と呼びかける方がいます。寝ていた私たちが起き上がると、ずっと待ってくれていたかのように、心から喜んでくれる方たちがいます。今日は、心を閉ざすことなく、差し伸べられた手を取って起き上がる一日になるようにしましょう。
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