2017年4月10日 礼拝説教 「変わることができる自分」

2017年410日礼拝説教 
「変わることができる自分」

ルカによる福音書3章1~9

1節              皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユ 
ダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイ
トラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
2節              アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が
荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
3節              そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦
しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
4節              これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ
野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐ
にせよ。
5節              谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道は
まっすぐに、でこぼこの道は平らになり、
6節              人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
7節              そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆
に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だ
れが教えたのか。
8節              悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』
などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころ
からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできにな
る。
9節              斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみ
な、切り倒されて火に投げ込まれる。」

イスラエルという国家がなくなった紀元前586年以来、旧約聖書の預言者たちの言葉の中心的なメッセージは、国が再び栄えるようになり、破壊されたエルサレムの神殿から姿を消した神様の霊が再び戻って来るというものでした。

その後、国は何とか形を取り戻しましたが、次々と姿を表す帝国の属国になり、再建されたエルサレムの神殿は、純粋な気持ちで神様を礼拝する場所ではなく、ユダヤ人の富裕層が金儲けの手段として牛耳る場所になっていました。

今日の聖書の箇所の背景は、日本では弥生時代の中期に当たる紀元26年。場所は今の地図でいうとイスラエルとヨルダンの国境付近。地域の支配勢力は、拡大を続けるローマ帝国。信仰深いユダヤ人たちの切実な叫びは「いつになったら神様が神殿に戻り、預言者たちの言葉が実現して国が栄えるようになるのだろう?」という問いでした。

ユダヤ人社会はいくつものグループに分かれていました。ローマ軍と手を取り合い、貧しい人たちを苦しめながら贅沢な暮らしをしていた人たちがいる一方、ローマ軍に協力する人たちにテロ行為を行い、機会がある度にローマ軍そのものに歯向かう人たちもいました。

このような中で、エルサレムの神殿に仕える祭司ザカリアの子ヨハネは、神殿にも、暴力に訴える人たちにも背を向けて民衆の支持を集めていました。神様の祝福と罪の赦しを得るためには、それまでの行いを悔いて改め、ヨルダン川の水に全身を沈める洗礼、別名バプテスマという儀式に参加するように教えました。高額な支払いが求められる神殿の儀式と違って、洗礼に必要なのは無料で手に入る川の水と、それまでの自分の生活を反省して改める決意でした。ヨハネの主張を要約すると次の通りです。

預言者たちが約束した、国が栄える新しい時代が今にも始まろうとしている。しかし、ユダヤ民族に属しているからと言ってその祝福にあずかれると思ってはいけない。民族や所属する集団を名乗って、それだけで特別な存在として扱われると思ってはいけない。神様の目にはそんな物は石ころほどの値打もない。問題なのは実を結ぶ木になっているかどうかだ。弱い物から養分を吸い取るだけで、相手のためになるものを何も返そうとしない人、集団、組織は切り倒され、火で燃やされてしまう。残って行けるのは実を結ぶ、周囲の人たちに幸せを運ぶ人たちだけだ。

変えられないのは他人と過去の私です。変えられるのは現在の私と、現在の行動です。今の私の状況に不満があるなら、次のことを忘れてはいけません。この状況を作ったのは過去の私です。今後の状況が良くなるように願っていますか。将来の状況を変えるのは将来の私ではなく、今の私です。この瞬間の、この私が、将来の私の姿を決めています。

去年の4月を思い出してください。その時の自分が結果として今の自分を作りました。来年も今のままの自分でいたいですか?それとも違った自分になりたいですか。人間であるということは、本能に任せることなく、自分の意志で変わることができるということです。今日、この日を、将来の違った自分を実現させる日にしてみませんか。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」

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