2025年3月1日卒業式 「どのような時も光と輝く」

 202531日卒業式

「どのような時も光と輝く」

詩編342節、6節、8節、9

2節               どのようなときも、わたしは主をたたえ、

わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。

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6節               主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。

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8節               主の使いはその周りに陣を敷き、

主を畏れる人を守り助けてくださった。

9節               味わい、見よ、主の恵み深さを。

いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。

どなたの人生にも何度かは勝利を実感し、「ここまで生きて来て良かった」と思わせる瞬間がやってきます。皆様にとってこの日が正に、そのような時であって欲しいと願います。他人の目には大したことのない、日常的なことに映るかもしれませんが、これまでの道のりを知っているご本人と、苦労を共にしてきたご家族には、日常どころか、奇跡のように思える出来事かもしれません。注目を浴びるのは輝かしい成果を上げた周囲にいる人であり、平凡過ぎる自分たちには、誰の目も留まっていないと思うかもしれません。しかし、当時者として、この時に味わう勝利の味は、世間から称賛を浴びる人たちには、勝っているとも、劣っているとも言えません。

これまで、公的にも私的にも何度も、卒業という場面に立ち会って参りました。自分の関係者がトップの成績で卒業した時もあれば、式の直前まで卒業が危ぶまれる状況を体験したこともあります。成績優秀者の関係者であるのは気分の良いことで、誇らしげなその一瞬は快適な物です。しかし、頂点に立った本人の次の戦いは、今にも始まる物であり、その日の栄光にいつまでも浸っている訳には行きません。更なる前進を期待するには、早くその余韻から覚めた方が良いこともあるかと思います。

しかし、私の脳裏に焼き付いている思い出はむしろ、それとは対照的な出来事です。関係者の名前が呼ばれた瞬間に近くから、「卒業できたんだ」という声が漏れました。言葉を発した人の目には、卒業するはずがないと映ったのでしょう。しかし、式後に、事情を知り尽くしている責任者から握手を求められ、その時にいただいた言葉、「偉大な親のお陰ですね」は、決して忘れられない、死ぬまで大事にしたい財産となりました。

最優秀者になった人の背景にも多くの苦労があり、それを軽視するつもりはありません。しかし、今日は、勝利者であることが明白な生徒に限らず、関係者が総出で力を出し合い、卒業にやっとの思いでたどり着いた生徒をも含む、すべての卒業生の勝利を祝う日です。

一年生の時に学んだアブラハム、二年生の時に学んだモーセに続いて、今年度の月曜日の朝の礼拝で、旧約聖書の三大人物の最後に当たるダビデについて学びました。気持ちが真っすぐな熱血漢であるダビデは、神様のお気に入りでした。最終的にイスラエルの王となり、バラバラな部族の集合体を強力な国家にまとめ上げた英雄肌の人物で、間違いなく、勝利者の部類に入ります。それから登場するイスラエルの指導者は皆、このダビデを基準に評価されました。

しかし、ダビデ物語を読みながら感じるこの人の魅力は、王位に就く前から始まり、国家が安定した後にも続く、様々な危機に直面した時に見られる対応の仕方にあります。幸いなことに、ダビデは詩人でもあり、聖書にはそれぞれの危機に合った時に書いた詩がいくつも残っています。さきほど、岩住宗教主事に読んでいただいのは詩編の34篇からの抜粋でした。本文の前に注釈が付いているので、その背景が分かりますが、「ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに」と書いています。詳しい説明は省略しますが、ダビデの一生の中で、もっとも恥ずかしい、みじめな思いをした時に書かれた作品です。

「悔しい。どうしてこんなことになるんだ。やっていられないよ。」普通の人ならだれでも、そのように叫ぶ状況の中でダビデは言いました。「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」信仰がある人が、どのような時にも讃美を歌えるのは、最低、最悪と思える事態を迎えた時にも、最善の道を用意してくださる神様がすべてを手中に収め、必ず勝利に導いてくださると確信しているからです。

主君に追われ、亡命先の王様から精神を病んでいると思われ、追い出されたダビデの命は危険に晒され、面子も丸つぶれにされた時に次のように言いました。「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。」どんな侮辱を受けても、人に顔も見せられないほど恥ずかしい思いをすることはない。そのような時にこそ、神様を見上げる自分は光と輝いている。孤立無援になり、絶体絶命のピンチを迎えているように思えても、目には見えない、神様の護衛隊が周りを固めているので大丈夫だ。

東奥義塾に在籍した三年の間、多くのことを学び、たくさんの知恵を蓄え、様々な力を身に付けました。しかし、間もなくこの学び舎を去り、これまで知らなかった世界へと旅立ちます。新しい挑戦に挑みながら、力不足を実感することもあるでしょう。自信を失うこともあり、家に逃げ帰りたいと思うこともあるでしょう。そのような時に忘れないでください。東奥義塾に育まれた皆様は、どのような時も光と輝いています。誰に何と言われても、恥ずかしいと思って顔を隠す必要はありません。想像した事のない恐怖を味わっても、神様の使いは皆様の周りに陣を敷いています。絶体絶命ということはありません。逃れる道は必ず開かれます。

卒業生の皆様。ご卒業、おめでとうございます。今日までは危険や恐怖に悩まされることのほとんどない、親や教師に守られた環境の中にいました。明日からは大学、専門学校、企業などに進み、これまでに体験したことのない、ヒヤッとするような風に晒されることになります。送り出す私たちは、皆様に東奥義塾の夢を託し、一人一人の姿を遠くから眺めることになります。しかし、どんな試練に遭っても、東奥義塾の卒業生としての輝きを失わないでください。人に脅され、正しくない道を強いられた時は怯えることなく、きっぱりと断ってください。目には見えなくても、皆様を取り囲んで守る勢力は、悪の勢力よりはるかに強いのです。東奥義塾の卒業生に相応しい存在として羽ばたき、より良い世界を作る活躍をしてください。

保護者の皆様。ご子息、ご息女のご卒業、おめでとうございます。十八年余り続いた子育ては大きな節目を迎えました。お子様の一歩一歩に気を配りながら過ごして来た日々は、今となって大きな実りをもたらしました。恐る恐る抱き上げたあの小さな命は、今となって自信に漲り、自分の人生に責任を持てる、立派な姿で高等学校を卒業することになりました。保護者様の夢と期待を背負いながら、一家の誇るべき代表として、力強い歩みを続けて行くものと確信しております。

ご来賓の皆様。今年度も私たちの卒業式にご列席いただき、まことにありがとうございます。普段から我が校を深く心に留め、教職員である私たちをご指導いただき、今日、卒業するお一人おひとりをこの三年間、励まし、支え、暖かく見守ってくださったことを、心から感謝申し上げます。今後も、卒業する生徒の後輩たちにも、特別な目を注いでくださるよう、心からお願い申し上げます。

今日ここに集まり、ここから出て行く尊いお一人おひとりの上に、神様の豊かな祝福があることを祈り、式辞といたします。

                     202531

                   東奥義塾高等学校

                 塾長 コルドウェル ジョン

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