2024年12月16日 礼拝説教 「私は主に罪を犯した」
2024年12月16日 礼拝説教
「私は主に罪を犯した」
1節
主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。
2節
豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。
3節
貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い、小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。
4節
ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。」
5節
ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。」
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7節
ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。
」
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9節
なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。
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13節
ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」
今月の初め、韓国の大統領は戒厳令を敷くと宣言しましたが、6時間後にそれを撤回しました。「戒厳令」と言ってもピンと来ない中高生も多いと思いますが、国会と裁判所の権限がなくなり、軍の力を借りた独裁体制を敷くことです。権力者に気に入られない人は逮捕され、マスコミは権力者に都合の良い事しか報道できなくなります。私が学生の頃、韓国には民主主義はなく、後に大統領になった野党の党首は逮捕され、死刑判決まで受けました。この時代にはどうしても戻りたくないと思う政治家や一般市民の反応は素早かったです。
しかし、世の中には、戒厳令に近い形で運営されている国がたくさんあります。数百年前まで、世界のどの国もこのような状態にあり、指導者に反抗したり非難したりすれば、殺されるか監獄行きになるかのどちらかでした。権力の頂点にいる人に物を申すのはあり得ないことで、プライベートのことになるとなおさらのことでした。三千年前の地中海付近でも、他の人間を服従させた強い人間にできることに、何の制限もありませんでした。
例外だった国は一つだけありました。権力の頂点にいるのは王様ではなく、王様を任命した神様だと信じるイスラエルでした。祭司たちが預かっている律法に基づき、預言者たちは王様が聞きたくないことをも、直接、伝えに行きました。とは言っても、その後続いた王様の多くは、耳あたりの良いことしか言わない偽預言者で周囲を固め、本当の事を言う預言者を遠ざけ、迫害しました。
「その男はあなただ。」と言って王様に迫る預言者ナタンの首は次の瞬間、飛ぶはずでした。「俺は王様だ!家臣の命も妻も、どうするかは俺の勝手だ!」ダビデはここで我を通すなら、そう言えば済む話でした。しかし、この国は、周囲の国とは違いました。ダビデの国ではなく、イスラエルの神、ヤハウェの国でした。ダビデの反応は当時としては、王様らしくないものでした。「私は主に罪を犯した。」
聖書が言う「罪」は法律を破ることを意味する「犯罪」とは違います。1990年代にホワイトハウスのインターンと不適切な行為が発覚したクリントン大統領は、大人同士の同意が成立し、最後の一線を越えていないことを理由にしばらくは潔白を主張しました。しかし、とうとう、逃げられないと判断した大統領は覚悟を決め、教会の牧師の集まりで告白しました。「おしゃれな言葉ではごまかせません。私は罪を犯しました。」
神様を信じている人間として、裁判所で裁かれることがないからと言って、聖書が言う「罪」とは無縁だと言えないことを認めました。ヒラリー夫人の赦しを受け、概ね、アメリカ国民の赦しを受けるきっかけになったこの告白に、政治的な策略を感じた人も多かったと思います。しかし、この度、大統領に返り咲くことになった人物との差を感じると共に、悪い方向に向かった時代が変化したと意識せざるを得ません。
「その主があなたの罪を取り除かれる。」ダビデの告白を聞いたナタンの口から出たのは裁判官による無罪の宣告ではなく、神様からいただく赦しの言葉でした。どのような罪も赦されると教える新約聖書時代の香りがする、大事な転換期を迎えました。新約聖書の最後に近い所にある一箇所を読んで終わります。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
冬休み明けに、この事件の時、ダビデが書いた二つの詩編を一緒に学びたいと思います。終業礼拝はまだですが、祝福されたクリスマスに続いて、良いお年をお迎えください。
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