2024年11月25日 礼拝説教 「王位に相応しい方」
2024年11月25日 礼拝説教
「王位に相応しい方」
1節
ペリシテ軍はイスラエルと戦い、イスラエル兵はペリシテ軍の前から逃げ去り、傷ついた兵士たちがギルボア山上で倒れた。
2節
ペリシテ軍はサウルとその息子たちに迫り、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを討った。
3節
サウルに対する攻撃も激しくなり、射手たちがサウルを見つけ、サウルは彼らによって深手を負った。
4節 サウルは彼の武器を持つ従卒に命じた。「お前の剣を抜き、わたしを刺し殺してくれ。あの無割礼の者どもに襲われて刺し殺され、なぶりものにされたくない。」だが、従卒は非常に恐れ、そうすることができなかったので、サウルは剣を取り、その上に倒れ伏した。
5節
従卒はサウルが死んだのを見ると、自分も剣の上に倒れ伏してサウルと共に死んだ。
6節
この同じ日に、サウルとその三人の息子、従卒、更に彼の兵は皆死んだ。
サムエル記下5章
1節
イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。
2節
これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」
3節
イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。
しばらく、劣勢だったペリシテ人に勢いが戻ってきました。イスラエルへの恨みを晴らそうと、これまでにない数の兵隊を集めて攻めて来ました。かつて、追い払ってくれたダビデを妬んで、遠ざけてしまったサウルは困り果てました。敵の数の多さに怯え、預言者を呼んで神様の指示を求めましたが、何の返事もありませんでした。天に見放されたと確信したサウルは自暴自棄になる一方でしたが、敗戦を覚悟の上で戦場に向かいました。
戦いの結果は惨憺たるもので、イスラエル軍にとってこれまでにない、大敗北となりました。勝ち目がないと見たイスラエル兵は逃げ、部下に捨てられたサウルは息子たちと共に戦死しました。生け捕りにされないように自ら命を絶ちましたが、せめての救いは部下のように逃げ出すことなく、最後まで戦場に残ったことでした。
戦いの様子を聞かされたダビデはサウルの死を喜ぶどころか、深い悲しみに襲われ、勇敢に戦ったサウル親子をたたえる詩を作りました。命を狙われながら、誰が見てもサウルに代わって王になるべき人はダビデでした。サウルには戦死した三人の息子の他にも子供がいましたが、敗戦したイスラエルを立て直せる器ではなく、ペリシテ人の支配に苦しむイスラエル人が取るべき行動は明らかでした。
全部族の長老がダビデの下に集まって契約を交わし、ダビデの家臣になりました。理想的なリーダーは自己アピールする必要はありません。得する時も、損する時も、筋の通った勇気ある行動を続けると、誰がリーダーに相応しいかが明らかになります。「わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。」
これ以上、疑う余地はありませんでした。ダビデこそ、サウルの王位を継ぐのに相応しい方でした。このようにして、後に続くすべての王の手本となるダビデ王が誕生しました。しかし、この国にはそもそも王がいませんでした。イスラエルの王は人ではなく、皆が信じて敬う天地創造の神、ヤハウェでした。周囲の国の王は、政治的な指導者であると同時に、支配する民族の礼拝を受ける神として崇められました。しかし、イスラエルの王の場合は、そういう訳には行きませんでした。
ダビデが後に続く王の手本になるのは完璧な人間だったからではありません。ここから登場するダビデ王は何度も失敗し、人間として許されないこともします。単なる英雄伝説なら、主人公の過ちを覆い隠すか、正当化するでしょう。しかし、この点で聖書は違います。容赦することなく、身近に感じる存在として、生身の人間であるダビデを描き続けます。王様は超人でも神でもなく、普通の人間であり、そこに重なって見えるのは、私たち自身の姿です。
ダビデの中に、周囲の国の王様に見られない、聖書が理想とする姿が見られますが、意外なことに、それは立派なことをした時よりはむしろ、失敗した時に見えてきます。先に進むと、とんでもない失敗をするダビデに出会いますが、サウル王のように、神様から見捨てられることはありません。それには理由がありますが、それについては、今後の礼拝の中で学んで行きたいと思います。
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