2024年11月18日 礼拝説教 「真実と出会った人の心」

 20241118日 礼拝説教

「真実と出会った人の心」

サムエル記上 24章9節~12節、17節~18節、21節、23

9節                  ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけた。「わが主君、王よ。」サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、

10節             サウルに言った。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。

11節             今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。

12節             わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。

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17節             ダビデがサウルに対するこれらの言葉を言い終えると、サウルは言った。「わが子ダビデよ、これはお前の声か。」サウルは声をあげて泣き、

18節             ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。

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21節             今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。

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23節             ・・・サウルは自分の館に帰って行き、ダビデとその兵は要害に上って行った。

 人には皆、罪があり、完全に良い人はいません。しかし、神様の命を受けて生まれて来た以上、何の良い所もない、完全に悪い人もいません。とても許せない、酷いことばかりする人に思えても、時には優しく、義理堅い側面を見せることがあります。周囲の人から見て、それまでのイメージとの落差が大きく、「本当は良い人だったのか」と思って気を緩めることもあります。しかし、そもそも、いろいろな側面を持っているのが人間の特徴であり、以前に比べて良くなったように見えても、警戒心を捨てない方が良いと思います。

 サウルは正に、とても人間らしい複雑な人です。ダビデは自分よりも、王になるのに相応しい人であることに気が付いています。ダビデが憎く思えるのは、ダビデに問題があるからではなく、自分の心にある劣等感や嫉妬心を処理しきれない、自分に原因があることを自覚しています。理由もなく殺そうとしているダビデの、常識はずれの善意に向き合ったサウルは、いたたまれなくなり、子供のように泣き崩れます。

 サウルは一旦、ダビデを追うのを止めて引き揚げますが、本当に反省したのでしょうか。残念ながら、これでサウルがダビデと和解して、仲の良い関係に戻ることはありません。今年度の礼拝で読むことはない場面だと思いますが、館に戻ったサウルの心は元に戻り、ダビデへの殺意は振り出しに戻ります。

 逃亡中のダビデにも、どうかな、と思える場面もありますが、一貫しているのは、サウル王に歯向かうことをしないことと、自暴自棄になって投げやりにならない所です。状況がいくら絶望的に見えても、羊飼いに過ぎなかった自分に目をかけてくれた神様への期待は薄れません。自分を捨てたサウル王への誠意も薄れることなく、殺されることを覚悟して王様への忠誠心を貫き通します。

 建設工事に比べると解体工事にかかる時間は短く、取り掛かったらアッという間に終わります。同じように、何年もかけて作り上げた国や組織でも、問題点を指摘して壊すのはさほど難しいことではありません。革命にはロマンがあり、人の気持を酔わせる魔力があります。問題は革命が起きた次の日です。暴力を使って政府を転覆した人たちが、平和的に国を治めることができるでしょうか。権力者を非難して政権を奪った勢力が逆に、非難を受ける側に立ってもその言葉を謙虚に受け止められるでしょうか。

 歴史上の人物を見ても、今の政治を見ても、政権交代が問題の解決ではなく、新たな問題に立ち向かう、再出発に過ぎないことが分かります。サウルより何年も若いダビデは、そのことを理解していたのでしょうか。新約聖書に移ると、名前を後にパウロに変えた、もう一人のサウルという人物に出会います。この人も理由もなく、神様に新しく選ばれた人たちを追い回して苦しめていました。その時、十字架で死んだはずのイエス様が彼と出会い、「サウル、サウル、何故、私を迫害するのか。」呼びかけます。

 旧約聖書のサウルとは対照的に、このサウルはイエス様の呼びかけに応え、全く新しい人間に生まれ変わります。聖書を読むと、様々な人物に出会います。固い心のまま自滅する人もいれば、心を柔らかくして神様の赦しと祝福を受ける人もいます。それぞれの人物の人生の結末から学びながら、私たちの生き方と心の持ち方について考えたいと思います。

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