2024年7月1日 礼拝説教 「王様が欲しい」

 202471日 礼拝説教

「王様が欲しい」

サムエル記上 84節~5節、10節~12節、18節~22

4節                  イスラエルの長老は全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、

5節                  彼に申し入れた。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」

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10節             サムエルは王を要求する民に、主の言葉をことごとく伝えた。

11節             彼はこう告げた。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、

12節             千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。

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18節             その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」

19節             民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った。「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。

20節             我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」

21節             サムエルは民の言葉をことごとく聞き、主の耳に入れた。

22節             主はサムエルに言われた。「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。」サムエルはイスラエルの人々に言った。「それぞれ、自分の町に帰りなさい。」

最近のニュースで話題になっているのは内閣支持率です。今の総理大臣は三年前の総選挙の直前に就任しました。前の総理大臣の支持率があまりにも低くなったので、選挙に負けると思った党員は新しいリーダーを立てました。最初は国民の半分以上の支持がありましたが、今になって支持率は前の総理大臣よりも更に低くなりました。戦後の総理大臣の資料を見ると、どの総理大臣も最初は支持率が高いです。しかし、わずかな例外を除くと、最後は皆、ひどい所まで支持率を落として辞めて行きます。

人間の不思議な習性の一つは、何らかの形で王様のような存在を立てようとすることです。世界各国の歴史を見ると「王様なんかいらない」と言って国王を追い出す国民は、何年もしない内に王様が恋しくなり、新しい国王を立てるパターンが見られます。去年は、イギリス国王の戴冠式が世界の注目を集めました。王様が完全にいなくなっても、大統領制を設けて数年に一回、国の運命を託す新しいリーダーを選ぶことに国民は大いに盛り上がります。

エジプトから上り、約束の国に入ったイスラエル民族は数百年間、王様がいないというのが特徴で、周りの国と違っていました。彼らは王様とではなく、神様との契約があり、人は皆ただの人で、神様に従う義務がある、平等な存在だと考えていました。敵に攻められてリーダーが必要になった場合、誰か一人に神様の霊が下り、その人の指示に従って危機を乗り越えました。

イスラエルという国には、目に見える王様がいなく、目に見えない神様がその役目を果たしていました。ただ、目に見える物を頼りしようと思った時と同じように、イスラエル人は目に見える人間に頼ろうとする弱さを見せ、王様が欲しいと願うようになりました。お祈りして神様の指示を待つサムエルのような預言者よりは、白い馬に乗って王冠をかぶる、強そうな格好いい王様の姿に憧れました。

サムエルは彼らに警告を与えました。「強いリーダーがいる国が栄えるように見えるかもしれない。王様がいた方が戦争に強く、道路や橋の建設が進み、経済も発展するかもしれない。しかし、良いことばかりではない。強い軍隊を持つ王様はあなたたちの息子たちを兵隊として奪い、娘たちに身の回りの世話をさせ、お金を巻き上げて豪華な暮らしを始める。言う事を聞かない者に罰を与え、表現の自由まで奪ってしまう。王様を立てことを必ず後悔するようになる。」

しかし、イスラエル人の意志が固いと見たサムエルは、神様と相談して彼らの求めに従うことにしました。ここからのイスラエルは、良い王様か悪い王様かで浮き沈みするようになります。聖書は新しいテーマとして、理想の王様の姿を描き始めます。王様を立てることになった以上、その位に相応しいのはどのような方でしょうか。結論から言うと、旧約聖書はダビデという王様にその理想を求めます。新約聖書に入るとイエス様は「ダビデの子にホサナ」と言って迎えられます。

しかし、ダビデは私たちのように弱さがあり、罪を犯す普通の人間でした。もっと大事なこととして、聖書は物と同じように、人間をも頼りにしてはならないと教えています。これからは王様の物語を通して、そのことを学んで行きたいと思います。

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