2024年6月24日 礼拝説教 「主を慕い求める時」

 2024624日 礼拝説教

「主を慕い求める時」

サムエル記上 72節~10

2節               主の箱がキルヤト・エアリムに安置された日から時が過ぎ、二十年を経た。イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた。

3節               サムエルはイスラエルの家の全体に対して言った。「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュタロトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。」

4節               イスラエルの人々はバアルとアシュタロトを取り除き、ただ主にのみ仕えた。

5節               サムエルは命じた。「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう。」

6節               人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し、その所で、「わたしたちは主に罪を犯しました」と言った。サムエルはミツパでイスラエルの人々に裁きを行った。

7節               イスラエルの人々がミツパに集まっていると聞いて、ペリシテの領主たちはイスラエルに攻め上って来た。イスラエルの人々はそのことを聞き、ペリシテ軍を恐れて、

8節               サムエルに乞うた。「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください。」

9節               サムエルはまだ乳離れしない小羊一匹を取り、焼き尽くす献げ物として主にささげ、イスラエルのため主に助けを求めて叫んだ。主は彼に答えられた。

10節           サムエルが焼き尽くす献げ物をささげている間に、ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んで来たが、主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。

ヨーロッパの一部には、家の入口に馬の足に着ける蹄鉄を飾る習慣があります。悪霊を追い払って幸運を招くと言われていますが、聖書を真面目に信じている人たちはこのようなことをしません。悪い物から守ってくださる神様を信じているので、魔除けを飾るのは不信仰の表れだと考えるからです。蹄鉄を飾っているクリスチャンがいれば、信仰が中途半端な人だと思っても、ほぼ間違いありません。

目に見えない世界をすべて否定する無神論者も、原則としては飾りませんが、気持ちが中途半端であれば、その限りではありません。笑い話の類になりますが、普段から目に見えない世界を否定する無神論者の家に行ったら、蹄鉄が飾ってあったという話があります。訪問者は「このような物を飾るのに、意味があるなんて思ってはいませんよね。」と念を押したら、無神論者は答えました。「信じてなんかいないよ。ただ、信じていなくても効果があると聞いたから飾っているんだ。」

ご利益宗教という言葉を聞いたことがあると思います。普段は神様をほとんど意識しないが、お参りをしておけば、お祓いしてもらえば、お守りを付けていれば、何か良いことがあると信じることをこのように言います。真面目に信じている人からすると、レベルが一番低い信仰に見られます。神様を、ボタンを押せば欲しい物が出て来る自動販売機と一緒に考えるなら、失礼なばかりではなく、人としての成長の邪魔にもなります。自分勝手な、正しくない生き方を改めようとしない人間の祈りを、何でも叶えてくださる神様がいるなら、世の中はますます悪い方向に進みます。

サムエルが生まれた頃のイスラエル人の信仰は、正にご利益信仰のレベルに落ちていました。本当の信仰は、神様に何をして欲しいと思うかではなく、神様が自分に何を求めているかを考える所から始まります。今読んだ聖書の箇所に、バアルとアシュタロトという言葉が出てきましたが、エジプトから導き出して契約を結んだ神様と関係のない物で、気持ちが中途半端なイスラエル人が魔除け効果やご利益を願って飾っていた物でした。

サムエルの矛盾がない信仰心を見たイスラエル人は、サムエルの教えに耳を傾け、「主、つまりヤハウェを慕い求めた。」と書いてあります。思うがまま欲望に従い、ヤハウェの神様をご利益の対象としか考えなくなったイスラエル人は、「これではまずい」と気が付きました。変化があったのは「これまでの自分ではだめだ。自ら変わろう。」と決心した時からでした。サムエルの指示に従ってミツパという場所に集まり、神様との契約の再確認を行うことにしました。

その噂を聞いたペリシテ人は、イスラエル人が戦争目的で集合したと誤解し、先手を打とうと思い、攻め上ってきました。これに焦ったイスラエル人に代わり、サムエルは神様に助けを叫び求めました。「叫んだ」とあるので、よほど大きい声を出したのでしょう。結果は、契約の箱を持ち出した時とは対照的でした。物に頼ることなく、心の変化から始まる、本物の信仰を目撃した神様は、彼らを見捨てることはありませんでした。日本人なら「神風が吹いた」と言うかもしれませんが、大きな雷が鳴り、ペリシテ人が追い払われました。自ら変わろうと決心する人間に慕われた時、決して黙っていないのが聖書の神様です。

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