2024年5月20日 礼拝説教 「人の名前を呼ぶ神」

 2024520日 礼拝説教

「人の名前を呼ぶ神」

サムエル記上 31節~11

1節               少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。

2節               ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。

3節               まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。

4節               主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、

5節               エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。

6節               主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。

7節               サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。

8節               主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、

9節               サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。

10節           主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」

11節           主はサムエルに言われた。「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。

子供に名前を付けるのは神様ではありません。しかし、親の好みや気まぐれで付けられた名前であっても、誰もが、名前を大切にして欲しいと考えます。笑いのネタにされたり、間違った読み方をされたりすると、いい気分ではありません。聖書によると、神様も私たちの名前を大切にし、一人ひとりを名前で呼びます。

当時の「少年」という言葉の使い方を調べると、今で言う中学生や高校生と同じくらいの年齢で、今日の話のサムエルは、ここにいる皆様と同じくらいの歳だったことがわかります。生き物の像を造らないイスラエル人が一番大事にしていた物は、神殿の奥にある、金で覆われた「神の箱」でした。箱の中にモーセが受け取った、十の戒めが刻まれた石板があり、箱の蓋は目に見えない神様の霊が降りて来る場所だと信じられていました。神殿の隣に寝室があり、夜になるとそこに寝ていたのは、高齢で目が不自由なった大祭司のエリでした。エリの付き人のサムエルは「神の箱」の横に寝ていて、その番人の役を務めていました。

「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」と書いてありますが、イスラエル人にとって、これは危機的な状況を意味する有様でした。神様の言葉が聞こえなくなるのは、耳を傾ける人がいないからであって、イスラエル国家が進むべき道は勝手な意見を言い合う人たちによって決められ、国の状態がますます悪くなり、ついに、取り返しのつかないことになっていたことを示しています。

エリは高齢で、夜中に目を覚すことが多くなり、その都度、サムエルを呼んで介助してもらっていました。夜中に起こされるサムエルは眠かったことでしょう。しかし、文句を言わずにエリの世話をするその敏感で素直な反応を見て神様は思いました。「神殿を守りながら、エリの世話もできるこの少年であれば、声をかけても良さそうだ。私の言葉を聞いてもらえるだろう。イスラエル人に私の思いを伝える役目を彼に託そう。彼の名前を呼ぶことにしよう。」

力のない、いい加減な大人になっていましたが、若い頃のエリに同じような経験があったかと思います。最初は何のことがわかりませんでしたが、次第にサムエルの名前を呼ぶ声の正体に気付きました。「自分にも、息子たちにも見切りをつけた神様は、新しいリーダーを見出し、サムエルに語りかけている。」そのことを悟ったエリは、声を聞いた時に従うべき作法をサムエルに教えました。

このような声は本当に聞こえて来るものでしょうか。ないと言って心を閉ざすなら、聞こえて来ることはまずないでしょう。困った時でも、自分の力で何とかやっていけると思っている内は何も聞こえて来ません。神様は困難に遭うのを許す理由の一つは、人の注目を引き、聞く姿勢を促すことにあります。追い詰められ、ごまかしが効かなくなると、人は自分の力を超えたお方の言葉を聞く気になります。

神様と二人きりになり、気を紛らわすテレビやスマホなどの電源を切り、サムエルに教えられた言葉を言ってみてください。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」耳に音声が聞こえるという期待はしない方が良いと思います。しかし、気持ちを静め、耳を澄ませて待つなら、大きな力がある、優しいお方の声が心に響いて来ることでしょう。気持ちが落ち着き、進むべき道が見えて来ることでしょう。

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