2024年4月5日 入学式 「僕は聞いております」
2024 年 4 月 5 日 入学式 「僕は聞いております」 サムエル記上 3 章 10 節 10節 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。 「どうぞお話しください。僕は聞いております。」 悪天候が続き、岩木山の噴火もあった 1783 年に起きたのは天命の大飢饉でした。食べる物がなく、弘前藩の人口の内、三分の一が餓死し、三分の一が隣の藩に逃げるという、大惨事がありました。明治時代以降は近代化が進み、天命の飢饉のような悲劇は起こりませんでしたが、大正 2 年、つまり 111 年前の 1913 年に同じような規模の大凶作がありました。 県民の大半が農家だった時代に、米の収穫がゼロという村がいくつもあり、蓄えがない農家は皆、生活に困りました。大人たちは食いつなぐために、僅かな賃金でも手に入る仕事を求めて方々に出かけ、子供の世話をすることができなくなりました。 当時の小学校の記録によると、内職や行商の手伝いをさせられ、学校に来られなくなった子供たちが大勢いました。来たとしても勉強の道具が揃わず、着る物も不十分で、運動するとお腹が空くという心配から体育の授業が取りやめになりました。しかし、小学生はまだ良い方で、特にかまってもらえなかったのは入学前の子供たちでした。 世話をしてもらえない子供が事故死したことで心を痛めたのは弘前教会の三代目の牧師、山鹿元次郎でした。この方は本多庸一とジョン・イングの下で洗礼を受けた初代東奥義塾の生徒の一人で、一度は閉校に追い込まれた東奥義塾の、 102 年前の復活の功労者で、その時の理事長になった方です。 救済事業をする制度がない政府に代わって、弘前教会は全国の教会に協力を呼び掛け、大規模な支援事業を行いましたが、この時、全国的にも例のないことを始めました。鷹匠町にある町道場を借りて託児園を開き、次のように宣伝しました。「満三歳から六歳までの幼児を預かります。風呂の設備があり、週に一度入浴させます。園児に昼のご飯をあげます。」今なら不思議なことではありませんが、当時は世間を驚かせました。 大凶作への対応で、一年限りの開園予定でしたが、続けて欲しいという要望が強く、 11...