2023年7月18日 終業礼拝 「守ってくれる小羊の血」

 2023718日 終業礼拝

「守ってくれる小羊の血」

出エジプト記111節、123節、6節~8節、11節~13節、

29節~33節、42節、51

11

1節           主はモーセに言われた。「わたしは、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。いや、そのときには、あなたたちを一人残らずここから追い出す。

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12

3節           イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。

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6節           それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、

7節           その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。

8節           そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。

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11節       それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。

12節       その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主(ヤハウェ)である。

13節       あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。

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29節       真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、

30節       ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。

31節       ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主(ヤハウェ)に仕えるがよい。

32節       羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい。」

33節       エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。

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42節       その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。 

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51節       まさにこの日に、主はイスラエルの人々を部隊ごとにエジプトの国から導き出された。

焼肉が好きな人ほど、肉の正体を意識しないで食べていると思います。スーパーに並んでいる美味しそうな肉はすべて屠殺場からやって来ますが、お客様の食欲に悪い影響を与えないように、屠殺場の内側を見せることはありません。日常的に家畜と触れ合う人は皆知っています。どんな生き物も、違う生き物の命を奪いながら生きていて、それは自然界の掟です。小羊を殺す話が残酷だと思うなら、まずは今までにいくつの動物の命を自分の胃袋に収めたかについて考えて欲しいと思います。

イスラエル人を奴隷にしたエジプト人に最後の災いが下る時が来ました。しかし、今度はイスラエル人も同じ災いに合わないように、血なまぐさい、気味が悪いとも言える儀式を行うように指示されました。それは焼いて食べた小羊を殺した時に流れた血を取り、家の入り口の横にある二本の柱と、上にある横木に塗る儀式でした。

エジプト人が受けた災いは罪の報いでした。イスラエル人に何の罪もなければ、災いに合う心配はなかったはずです。しかし、ここで彼らにも罪があり、その報いを受けないように身代わりとなる動物の命を差し出す必要があるという教えを受けました。自分たちの身代わりに命が捧げられた証として家の入口に血が塗られ、神様はその血を見て、その家に住む人に最後の災いを下しませんでした。

 エジプト人の初子を死なせた災いは、イスラエル人に何の害をも与えることなく、彼らの家は「過越され」ました。この日を記念して世界各地に住むユダヤ人は今も毎年、「過越し祭」を祝い、各家庭で過ぎ越しの食事をします。旧約聖書の中でこの物語は天地創造に並んで大事なお話で、ユダヤ信仰の基礎になっています。エジプト人の奴隷だった自分たちにも罪があったが、神様はその罪を赦して奴隷生活から解放してくださいました。このことがあったからこそ、ヤハウェの神様にのみに仕え、その教えを固く守るように努めました。

 しかし、この物語はキリスト教信仰にも深く繋がっています。バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と言ってイエス様を紹介しました。レオナルド・ダビンチの絵で有名な「最後晩餐」は、十字架にかけられる前の日の夜、イエス様が弟子たちと一緒に守った最後の過越しの食事を描いています。貧しかった彼らに小羊はなく、イエス様は代わりにパンとブドウ酒を差し出して言いました。「取って食べなさい。これはわたしの体である。皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

 後にイエス様を信じた人はユダヤ人よりは、違う民族の人たちの方が多くなりましたが、ユダヤ人ではない彼らは小羊を捧げるためにエルサレムの神殿に入ることも、過越し祭の食事に参加することも許されていませんでした。それを見たキリスト教の最初のリーダーたちは、イエス様が十字架で流された血は罪の赦しのために十分で、小羊の血はもはや必要ないと教え、次のように言って他民族の仲間を励ましました。

 「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた・・・あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や・・・キリストの血によって近い者となったのです。」つまり、礼拝堂にある十字架は、家の入口に塗られた小羊の血に代わるもので、教会で行われる聖餐式は過ぎ越しの食事に代わる物です。新約聖書の終わりの方に次の言葉あります。「わたしたちが、光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」

新年度が始まって4か月近くの時間がたちましたが、この短い時間に皆様は大きく成長しました。付き合わせてもらった私たち教員の心の中にもいろいろの変化が起き、私たちなりに成長させていただきました。讃美歌が歌える通常の礼拝が始まり、これまで制限がかかっていた行事の復活もありました。気候変動の影響かもしれませんが、せっかくの行事が雨に悩まされることも多かったです。土曜日に終わった義塾祭にも雨の心配が付きまといましたが、結果として予定していた事をすべて、見事に完成できました。

これから始まるのは夏休みです。一か月間、私たちの目の届かない所で、お一人おひとりの思い通りに活躍する時間の始まりです。楽しさいっぱいの、学校にいれば体験できない、心を大きくする体験をして欲しいと強く願っています。その一方、夏休みには、心や体に傷を負わせる危険が潜んでいるのも事実です。多少の傷を負うのは覚悟の上かもしれませんが、一生後悔するようなことにならないように、十分に気を付けてください。一か月後は、皆様の元気な笑顔と再会したいです。心の入り口に塗られた小羊の血と、イエス様の十字架に守られて過ごせるように祈ります。皆様の夏休みの上に神様の祝福がありますように。

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