2023年6月26日 礼拝説教 「神様のえこひいき」
2023年6月26日 礼拝説教
「神様のえこひいき」
出エジプト記8章16節~18節、9章1節~6節、10節~11節
16節
主はモーセに言われた。「明朝早く起きて、水辺に下りて来るファラオを出迎えて、彼に言いなさい。主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。
17節
もしあなたがわたしの民を去らせないならば、見よ、わたしはあなたとあなたの家臣とあなたの民とあなたの家にあぶを送る。エジプトの人家にも人が働いている畑地にもあぶが満ちるであろう。
18節
しかし、その日、わたしはわたしの民の住むゴシェン地方を区別し、そこにあぶを入り込ませない。あなたはこうして、主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる。・・・・
9章
1節
主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ』と。
2節
もしあなたが去らせるのを拒み、なおも彼らをとどめておくならば、
3節
見よ、主の手が甚だ恐ろしい疫病を野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊に臨ませる。
4節
しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別される。イスラエルの人々の家畜は一頭たりとも死ぬことはない。
5節
主はまた時を定め、明日、この地でこの事を行われる。」
6節
翌日、主はこの事を行われたので、エジプト人の家畜はすべて死んだが、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。
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10節
二人はかまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセがそれを天に向かってまき散らした。すると、膿の出るはれ物が人と家畜に生じた。
11節
魔術師もこのはれ物のためにモーセの前に立つことができなかった。はれ物は魔術師のみならず、エジプト人すべてに生じた。
聖書の神様はえこひいきしますか。結論から言うと、します。聖書に「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」という言葉がありますが、謙遜な人の見方であるのはもちろんのこと、貧しい人、弱い人、虐げられた人の見方でもあります。貧しい人がお金持ちに比べて良い人間だとは限りませんが、イエス様は「貧しい人々は幸いである。富んでいるあなたがたは不幸である。」と言いました。
一番目から三番目の、ナイル川、カエル、そしてブヨの災いは、エジプト人だけではなく、イスラエル人をも苦しめました。しかし、ここで神様は、イスラエル人だという、それだけの理由で、四番目から六番目の災いから守りました。悪いイスラエル人もいれば、立派なエジプト人もいたでしょうが、アブ、家畜の病、膿の出るはれ物の災いは、エジプト人にだけ降りかかりました。
神様はえこひいきすると言いましたが、何もしないで黙っている時もあります。少なくてもそのように見えることがあります。毎朝、礼拝に出ている東奥義塾の生徒が、試験に必ず合格し、試合に必ず勝てるなら都合が良いと思うでしょうが、そうは行きません。これまで何十年もの間、エジプト人の奴隷として苦しんでいたのはイスラエル人でした。ヤハウェを信じていたからと言って幸せに暮らしていた訳ではありません。
ホロコストで六百万人ものユダヤ人がナチドイツに殺された時、「何もしないで黙って見ていた神様を許せない」とまで言ったユダヤ人がいました。どんなに真面目で優しい人にも、偶然に当たった不幸せくじのように、辛い経験がやって来ます。えこひいきしてくれる神様どころか、辛い目に合わせる、冷たい神様しかいないと思うこともあるでしょう。
私の人生の中にも、神様がそのように映った事がありました。「信じ続け、正しいと思ったことをしたではないか。それなのに、神様に捨てられた。」そのような思いになり、友だちからも「いつも貧乏くじを引いているね。」と言われたことがあります。一つの情けもない、人生のサイコロに振り回されただけだと思って落ち込んだこともありました。
しかし、いくつもある聖書の物語の落ちは、ストーリーがそこで終わらないということです。私の場合、焦りと悔しさが諦めと開き直りに変わり、しばらくの時間がたってから、何かが変わり始めました。最悪の道だと思って覚悟を決め、希望を捨てて進んでいたその先に光が見えてきました。こんなはずはないと思いました。貧乏くじどころか、このような幸せが自分に巡っても良いのかと思いました。これこそ、神様のえこひいきではないかとさえ思うようになりました。
支配者だったエジプト人の苦しみは自分たちに及んでいない。モーセをありがた迷惑な存在だと思い始めたその頃、イスラエル人の心に小さな希望が湧いてきました。神様は自分たちを区別している。この時を待っていたとも言えないのに、自分たちへの神様の思いが動き出していると感じました。これが聖書のストーリーであり、全人類に当てはまる物語です。いつになるかはわかりませんが、皆様にもそのような時が来ると信じています。
聖書の神様はえこひいきしますか。結論から言うと、します。聖書に「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」という言葉がありますが、謙遜な人の見方であるのはもちろんのこと、貧しい人、弱い人、虐げられた人の見方でもあります。貧しい人がお金持ちに比べて良い人間だとは限りませんが、イエス様は「貧しい人々は幸いである。富んでいるあなたがたは不幸である。」と言いました。
一番目から三番目の、ナイル川、カエル、そしてブヨの災いは、エジプト人だけではなく、イスラエル人をも苦しめました。しかし、ここで神様は、イスラエル人だという、それだけの理由で、四番目から六番目の災いから守りました。悪いイスラエル人もいれば、立派なエジプト人もいたでしょうが、アブ、家畜の病、膿の出るはれ物の災いは、エジプト人にだけ降りかかりました。
神様はえこひいきすると言いましたが、何もしないで黙っている時もあります。少なくてもそのように見えることがあるでしょう。毎朝、礼拝に出ている東奥義塾の生徒が、試験に必ず合格し、試合に必ず勝てるなら都合が良いと思うでしょうが、そうは行きません。これまで何十年もの間、エジプト人の奴隷として苦しんでいたのはイスラエル人でした。ヤハウェを信じていたからと言って幸せに暮らしていた訳ではありません。
ホロコストで六百万人ものユダヤ人がナチドイツに殺された時、「何もしないで黙って見ていた神様を許せない」とまで言ったユダヤ人がいました。どんなに真面目で優しい人にも、偶然に当たった不幸せくじのように、辛い経験がやって来ます。えこひいきしてくれる神様どころか、辛い目に合わせる、冷たい神様しかいないと思うこともあるでしょう。
私の人生の中にも、神様がそのように映った事がありました。「信じ続け、正しいと思ったことをしたではないか。それなのに、神様に捨てられた。」そのような思いになり、友だちからも「いつも貧乏くじを引いているね。」と言われました。一つの情けもない、人生のサイコロに振り回されただけだと思って落ち込んだこともあります。
しかし、いくつもある聖書の物語の落ちは、ストーリーがそこで終わらないということです。私の場合、焦りと悔しさが諦めと開き直りに変わりました。それからしばらくの時間がたち、何かが変わり始めました。最悪の道だと思って覚悟を決め、希望を捨てて進んでいたその先に光が見えてきました。こんなはずはないと思いました。貧乏くじどころか、自分にこのような幸せが巡っても良いのだろうかと思いました。これこそ、神様のえこひいきではないかとさえ思うようになりました。
支配者だったエジプト人の苦しみは自分たちに及んでいない。モーセをありがた迷惑な存在だと思い始めたその頃、イスラエル人の心に小さな希望が湧いてきました。神様は自分たちを区別している。この時を待っていたとも言えないのに、自分たちへの神様の思いが動き出していると感じました。これが聖書のストーリーであり、全人類に当てはまる物語です。いつになるかはわかりませんが、皆様にもそのような時が来ると信じています。
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