2023年6月12日 礼拝説教 「血に変わった川の水」
2023年6月12日 礼拝説教
「血に変わった川の水」
出エジプト記7章14節~18節、20節~21節、23節~24節
14節
主はモーセに言われた。「ファラオの心は頑迷で、民を去らせない。
15節
明朝、ファラオのところへ行きなさい。彼は水辺に下りて来る。あなたは蛇になったあの杖を手に持ち、ナイル川の岸辺に立って、彼を待ち受け、
16節
彼に言いなさい。ヘブライ人の神、主がわたしをあなたのもとに遣わして、『わたしの民を去らせ、荒れ野でわたしに仕えさせよ』と命じられたのに、あなたは今に至るまで聞き入れない。
17節
主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知る』と。見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる。
18節
川の魚は死に、川は悪臭を放つ。エジプト人はナイル川の水を飲むのを嫌がるようになる。」
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20節
モーセとアロンは、主の命じられたとおりにした。彼は杖を振り上げて、ファラオとその家臣の前でナイル川の水を打った。川の水はことごとく血に変わり、
21節
川の魚は死に、川は悪臭を放ち、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。こうして、エジプトの国中が血に浸った。
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23節
ファラオは王宮に引き返し、このことをも心に留めなかった。
24節
エジプト人は皆、飲み水を求めて、ナイル川の周りを掘った。ナイルの水が飲めなくなったからである。
今から3,200年位前、地中海付近に歴史家にも説明できない、不思議な事が起こりました。それまで栄えていた青銅器時代の帝国が次々と崩壊し、何百年も栄えていた文明のほとんどが姿を消しました。海からやって来た侵略者の仕業だったと言う学者もいれば、自然災害によるものだったという学者もいます。出エジプト記のこの物語の背景にもこの古代帝国の崩壊があったと思われます。しかし、この激動の時代を乗り越え、持ちこたえたのもエジプトに栄えていた文明でした。他の文明の様に滅びなかった主な理由は、はるか南の方から流れて来る、世界で一番長い川、ナイル川の水のおかげでした。
エジプトはサハラ砂漠の一部で、雨がほとんど降らない地域にあります。ナイル川がなければ、エジプトに人が住むことはなく、象形文字もピラミッドもなかったことでしょう。イラクにあるユーフラテス川や、パキスタンにあるインダス川も偉大な文明を産みましたが、ナイル川にはかないませんでした。水の量が不安定だったり、大洪水があったりする他の大河と違って、ナイル川は規則的に、ゆっくりと増水し、エジプトに住む人たちに安定した豊かな生活を与えました。
ナイル川はエジプト人が拝む神々からの贈り物だと信じられ、エジプト社会の頂点にいたのは、即位式の時に神となったエジプトの王、ファラオでした。これまで見た通り、ファラオは誰の言うことをも聞く必要がないと考える傲慢な人でした。決して枯れることのないナイル川の神々がついていると信じていたので、その恵を頼りに避難して来た遊牧民を、好き勝手にできると思いました。
ここでファラオに「待った」をかけ、同じ人間を粗末にしてはならないと言う方が登場しました。モーセでもなく、虐待されたイスラエル人でもなく、ナイル川を自ら作られたお方、いつも、どこにもおられるお方、苦しみ叫ぶすべての人間に耳を傾けるお方、イスラエル人の先祖に姿を現したお方、天地創造の神、ヤハウェでした。ヤハウェはいとも簡単にファラオの命を奪うことができました。しかし、それはヤハウェの流儀ではありませんでした。いくら悪い人間であっても、ヤハウェはまず悔い改めるように促し、心を改める機会を与えました。
自分を神と思い込み、奴隷の神の言うことを聞く必要がないと考えたファラオは、エジプトにも弱点があると気が付いていませんでした。ファラオの生命線は、正しい人にも、正しくない人にも雨を降らせ、太陽を昇らせるお方に握られていました。赤道付近に降る雨水が流れるナイル川の原点を抑えていたのはファラオではなく、天地創造の神、ヤハウェでした。
ナイル川の水が血の様に赤くなったのは純粋に奇跡だったのか、何らかの自然現象だったかについて解釈が分かれます。しかし、確かに言えるのは、ファラオにこの時、反省するチャンスがあったということです。ナイル川の異変を立場の弱い人を虐待するのは良くないという、神様からのメッセージとして捉えることができました。ファラオはここで、ナイル川が自分の物ではなく、天地創造の神から受け取った贈り物だと悟る絶好の機会に恵まれました。
しかし、素直になれない時の私たちと同じように、ファラオはその機会を逃しました。同国民のエジプト人が困っているというのに、自分の家に引きこもり、気にも留めませんでした。ヤハウェの憐れみ深い警告に耳を貸さなかったファラオは、反面教師となって今ここにいる私たちを諭しています。「自分で生きていると思うなよ。自分をはるかに超えた大きな方に生かされている。その事実を謙虚に受け止めて生きなさい。」
聖書の最後のページに神様の元から流れる川が紹介され、それに続いて次の言葉あります。「来てください。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」
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