2023年5月15日 礼拝説教 「手に持っているものは何か」

 2023515日 礼拝説教

「手に持っているものは何か」

出エジプト記311節、12節、41節~5節、10節~14

311節 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 

12節         神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。」・・・ 

41節 モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、

2節              主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、

3節              主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。

4節              主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。

5節              「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる。」・・・

10節         それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」

11節         主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。 」

12節         モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」

13節         主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。・・・

14節         彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。」

若い内は、何でも良いから大ブレークして見たいという思いがあります。しかし、ほとんどの人の人生は、コツコツと小さな経験を積み重ねる、大したことも起きない日々の連続です。そもそも、人生の大ブレークは、自分の都合でやって来るものではありません。ブレークするのは自分が望むからではなく、困っている人がいて、たまたまそこにいる自分が必要とされるからです。神様が大きなジグソーパズルを作っているとするなら、突然、自分がその1ピースとなり、思いもしなかった位置にははまっていく所から始まります。

英語でこのような出来事を「コーリング」と言います。つまり、淡々と生きている人の耳にある日、自分の名前を呼ぶ声が聞こえます。「待っていました」と言って飛びつく人は稀で、たいていの人はまず、尻込みします。与えられた勤めを名誉に思う前に、「立ち向かえ」と言われた困難の大きさの前に呆然となって立ちすくみます。今日、読んだ箇所のモーセの心境は正にそうでした。モーセは四つのことを言って抵抗します。「わたしは何者でしょう。」「誰からも相手にされなければどうしよう。」「自分は口下手で話をする才能がない。」そして最後に、「だれかほかの人を遣わしてください。」

この四つの異議に対して、神様も四つの答えを出します。「わたしは必ずあなたと共にいる。」「あなたが手に持っている物は何か。」「人に才能を与えるのは神である私ではないか。」そして、最後に「あなたに兄弟がいるではないか。」神様のご計画が一度動き出すと、巻き込まれた私たちの身分の低さ、才能のなさ、仲間がいないことなど、一切、問題にしてもらえません。何故なら、それは人の業ではなく、主役に見える人間は本当の主役である神様の陰に立つ、小さな脇役に過ぎないからです。

本当に偉大なことをする人は皆、自分の圧倒的とも言える力不足を意識します。しかし、ここにいる自分はいったい何者だろうと思うと、神様の声が響いてきます。「あなたがどうなのかを問題にしていない。ここに私がいる。このことを実現させるのはあなたではなく私だ。」「皆から相手にしてもらえないだろう」と尻込みするモーセに向かって神様は尋ねます。「あなたが手に持っているものは何か。」モーセの答えは、羊の誘導に使う杖でした。ただの杖と思っても、神様の指示通りに使うと、思いがけないことが起こりました。

神様の業が始まると、私たちも同じように問われます。「あなたが手に持っているものは何か。」私たちは何と答えるでしょうか。「郷土料理です。」「サッカーボールです。」「三味線です。」「パソコンです。」「竹刀です。」「トランペットです。」「津軽弁です。」答えが違っていても、それに続く神様の指示はいつも同じです。「それを地面に投げよ。」つまり、独り占めしないで、人のために使いなさい。意外なことが始まるのはそれからです。

才能はそもそも自分の物ではなく、命をくれた神様からの贈り物です。独りぼっちだと思っても、神様の業が始まると意外な人が協力してくれます。一人、二人と仲間が増えて行きます。神様からの大ブレークが来るのがいつかは分からないし、一生に何回もあるとは限りません。今の私たちにできるのは、日々の生活において地味で目立たないヒーローになり、時が来たら素直に「はい」と言える心の備えをすることです。これが私たちへの聖書のメッセージです。

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