2023年3月8日終業式 「はるかに見て喜ぶ信仰」

 202338日終業式

「はるかに見て喜ぶ信仰」

ヘブライ人への手紙1112, 6, 810, 13, 16

1節              信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

2節              昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

6節              信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

8節              信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。

9節              信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。

10節         アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

13節         この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

16節         ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

皆様は今、話題になっているチャットGPTを使ってみましたか。ネット経由で人工知能と会話ができるアプリです。何回か試してみましたが、感情的なことについて尋ねない限り、人間と対話している気にさせてくれます。英語で質問すると英語で答え、日本語で質問すると日本語で答えます。弘前市の地理には詳しくないようですが、百科事典に載っていることはほとんどわかります。ただ、20211231日以降の事は知らないので、「ロシアは何故ウクライナに侵攻したか?」と尋ねたら、「そのような事実は知らない。事実に反するうわさを広めてはいけません。」と注意されました。来年は私たち夫婦の結婚40周年記念ですが、妻に贈る詩を書いて欲しいと頼んだら、それなりに良い物を作ってくれました。しかし、「悲しくなったり、寂しくなったりすることはありますか?」と尋ねたら、「コンピュータのプログラムなので、そのような人間的な感情はありません。」と答えました。つまり、文字と数字には強いですが、人間の心の問題になると限界があいります。

学問的に説明するともっと複雑な話になるようですが、私のような素人にもわかるように説明してくれる専門家によると、左脳と右脳の機能を次のように分けることができます。左脳は文字や数字で表現できることを理解するのが得意で、文字や数字で表せないことを理解するのは右脳です。左脳は何でも知っていると思いがちですが、人間的な価値観を理解するのが苦手です。右脳は物事を機械的に処理しようとする左脳の衝動を抑え、人間らしく生きることについて教えます。文字や数字そのものにすばらしい機能があっても、人を感動させる力はありません。しかし、左脳と右脳が真剣に協力し合うと苦難を乗り越え、人生の意味さえ感じさせる言葉を生み出すことができます。

すぐれた文学にこのような要素が見られます。「国破れて山河あり。」「古池や蛙飛び込む。」文字の意味だけを考えると、「それで?」と聞きたくなるかもしれません。それは正に左脳的な反応です。しかし、右脳が文字の奥にある意味を吸収すると、全く違う反応を期待できます。聖書の言葉になると、文学を超えた聖典の域に入ります。文字だけに捕らわれると、非科学的で、現代社会に適用できない書物だと思うかもしれません。しかし、頭で表面的な文字を理解するのにとどまることなく、作者を動かした神様の霊が伝えようとしていることに心をとめると、聖書の言葉はいのちのパン、つまり、なくてはならない心の栄養分になります。信仰を持つということは、このような読み方をすることです。

さきほど読んだ、ヘブライ人への手紙は、新約聖書に載っている旧約清書の解説書のようなものです。信仰というテーマについて語るこの手紙の11章は、愛というテーマを取り上げるコリントの信徒への手紙113章に並ぶ、聖書の有名な個所です。今、読んだ部分は、今年度の初めから取り上げて来た創世記を、信仰という観点から解説しています。

聖書はアブラハムの信仰を称えますが、結果としてこの人は一体どのような実績を残したでのしょうか。創世記の次に来る出エジプト記の主人公のモーセは奴隷だったユダヤ人を解放して約束の地に導き、十戒を初めとする律法を与えます。約束の地で生まれたダビデは小さな部族の集合体を、どの敵にも屈しない、立派な国家としてまとめ上げます。では、アブラハムはどうでしょうか。神様の言葉を信じて故郷を離れ、約束されて生まれた子供を生贄として奉げるように指示されると素直に従います。後は何かありますか。書物を書くとか、石碑を立てるとか、街をつくるとか、会社を創設するとか、何かあっても良さそうですが、何もありません。

ヘブライ人への手紙の作者は言います。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげました・・・だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」アブラハムの実績は、目に見えるものではなく、目に見えない事実として、信仰の目を使って確認するものでした。

都会を捨て、テントで暮らす移住生活を始めたアブラハムに、何十年も子供が生まれることなく、土地の所有もかないませんでした。しかし、目に見えない世界でアブラハムは神様とタッグを組み、人類の歴史を一変させる実績を残しました。つまり、エデンの園からの追放に始まった人間の神様との断絶を、信仰という目に見えない絆によって、人間のあるべき姿を回復させました。

これ以前に、エノクやノアもいましたが、神様との関係は一代で終わりました。アブラハムから始まって、神様の目線で世界を捉える信仰という生き方は子孫にも伝わり、現在に至っています。有意義な人生を送るため、外見的な豊かさや成功は必要不可欠なものではありません。戦争、病気、貧困や孤独の中でも、人は神様としっかりと繋がっていれば、アブラハムのように「約束されたものを手に入れなくても、はるかにそれを見て喜びの声をあげることができます。」

外見的に、ここにいる皆様も私も、幸せで理想的な人生を送っているように見えるかもしれません。しかし、表面を包む外側を少しでも突っつくと、人には見られたくない、不安を抱えながら、落ち込んでいる自分がいます。人の前いるといつも強がっていても、子供としてどう仕様もない家庭の不和と向き合ったり、欲しい物を買うお金がなかったり、理解できない授業について行けずに焦ったり、部活に励んでも勝てなかったり、皆と話を合わせることができなくて仲間外れにされたり、人に気付かれたくない顔や体に対するコンプレックスがあったりするのが人間であり、その内に一つ以上は自分にもあるかもしれません。

これまで、いくら祈っても、何も変わることがなかったかもしれません。来年度になって状況が大きく変わる保証もありません。ただ、数字で数えることができない、文字でも表現できないレベルで、「望んでいる事柄を確信させ、見えない事実を確認させる」心の支えを確実に手に入れることができます。今は前が見えなくても、一年後に振り返り、神様が導いてくださった道がこれだったのかと、気が付くことになると私は確信しています。

進級判定はまだですが、とりあえず、高校生として一年分の学びを無事に終えることができました。おめでとうございます。短い、春の休暇を迎えますが、雪がすっかり解け、桜のつぼみが見えた頃に、またお会いしましょう。新しいスタートに向けてしっかりと心と持ち物の整理をしてください。身体も心もすべての悪から守られるように祈ります。

Comments

Popular posts from this blog

2019年3月8日 終業礼拝 「心のメンテナンス」

2024年2月26日 礼拝説教 「同行してくださる神」

2023年7月10日 礼拝説教 「人の心を固くする神」