2023年2月27日 礼拝説教 「愛する独り子」

  2023227日 礼拝説教

「愛する独り子」

創世記2215節~19

15節               主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。

16節               御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、

17節               あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。

18節               地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

19節               アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

聖書の神様は人と親しい、心が通い合う関係を求めています。最初の人のアダムと親しい対話ができましたが、エデンの園からの追放の後は距離ができます。人類を全体として眺めると神様が心を痛めることが多く、天地創造の最高傑作でもある人間との関係が、うまく行ったとは言えません。アブラハムの世代から神様は作戦を変えます。特定の人間と信頼関係を築き、その一人を通して全人類に幸せを届けるという方法を選びます。

 ある意味でアブラハムは、人間と深い、親しい関係を築くのが可能であるかを試す、神様の実験台でした。アブラハムは失敗を重ねながら成長し、神様が求める水準に近づきました。イサクを捧げなさいと指示された時、究極の試練に耐え、神様の心を深く感動させました。あまりにも感動したので、神様は絶対に破ることのできない誓いを立て、これまでの約束の再確認をしました。

神様との駆け引きはこれで完了し、アブラハムにはこれ以上の試練がやって来ませんでした。しかし、父親が子供を生贄にしようとする、この不気味な光景を眺めながら、神様は一体何を考えていたのでしょうか。人間は神様の心を探ることはできませんが、ヒントならいくつかあります。まずは、アブラハムとイサクが二人で登った山があるのはモリヤの地でした。これは後に、イスラエルの首都となったエルサレムがある場所で、この都の外にある丘の上にローマの兵隊が用意した十字架が立てられました。

この十字架にかかったのは「これは私の愛する子、私の心に適う者。神はその独り子をお与えになった。」と言って世に紹介されたお方です。モリヤの地にある同じ山の上にこの「愛する独り子」が殺されようとしました。この点ではイサクと同じでしたが、手と足にくぎが打たれようとした時に、天から「その子に手を下すな」という声は響きませんでした。「イサクを生贄として奉げなさい」と言った神様は、自分の愛する独り子が、人類の罪を背負って死ぬのを見ながら、何もしませんでした。神様の愛を一心に受けて来た独り子はその時、「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか。」と叫びましたが、誰も助けに来ることなく、十字架にかけられたまま死にました。

旧約聖書の初めから終わりまで、神様はあの手この手で、人間に自分の心を分かってもらおうとします。上手く行きそうになる時もありますが、いざとなると、肝心な部分がなかなか伝わりません。新約聖書に進むと、神様はとっておきの切り札を出します。殺されることを承知の上で、独り子のイエス様をこの世に送ります。今度は縄で縛られ、鞭で打たれ、十字架を背負わされ、イサクと同じように、山に連れて行かれる独り子の姿を見るのは神様ご自身です。その時、刃物を取って息子を屠ろうとしたアブラハムの辛さを、自分から進んで味わうことになります。

天地創造の神が何故、ここまでご自分を追い詰めなければならなかったのでしょうか。その答えも新約聖書にあります。十字架にかかって人類の罪を背負ったこの方を信じるすべての人に、永遠の命が与えられるためでした。礼拝堂の真ん中にある十字架はただの飾り物ではなく、キリスト教の一番大事な事実を表しています。十字架の意味がわかると、アブラハムとイサクの話もピンと来るので、これからも聖書の学びを続けたいと思います。

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